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☆今回は東京を離れて、神戸からのモノローグです。

 阪神電車に乗るのは何年ぶりだろうか。記憶が正しければ、三宮の東急ハンズが開店した時以来だから、約10年ぶりになる。当然、神戸へ足を運ぶのもそれ以来になるから、ずいぶんとごぶさただった訳である。阪神大震災後、運転を再開するまで多くの時間を要した阪神電車。高架橋が崩れて車両ごと転落した様に象徴されるように、被害が甚大だったことが思い起こされる。

 そんな阪神電車(正確には沿線住民や通勤客)に一つの念願があった。姫路と神戸とを結ぶ山陽電鉄との直通運転(梅田~姫路)である。物の本によると、阪神側は梅田から神戸高速鉄道を経由して、山陽側の須磨浦公園まで。山陽側は姫路から同じく神戸高速鉄道を経由して、阪神側の大石まで、という変則的(つまり尻切れトンボ)な相互乗り入れをしていたところ、やっと梅田~姫路を直通で結ぶ特急列車の運転が開始された。それは昨年のちょうど今ごろ、2月15日。つまり直通を始めて1年経った訳である。震災がなければもっと早く実現していたかも知れないが、復興に呼応して、加速的に実現したと言った方がいいだろう。震災後、最初に立ち直ったJR線に乗客を奪われていたこの2つの私鉄にとって、乗客の呼び戻しは急務。そのカギがこの直通特急だったと言える。東京でも他社線の相互乗り入れは盛んだが、終点から終点を結ぶ直通特急はむしろ珍しい。快挙だと思う。(例えば、京成線・都営浅草線・京浜急行の乗り入れは有名だが、昨秋やっと成田空港と羽田空港を結ぶ特急がお目見えしたばかりで、終点間となる成田空港と三崎口を結ぶ運転はしていない。)

 直通特急は30分おきの間隔だが、ちょうど12:00梅田発の列車に乗ることができた。沿線住民でもないのにこんな感想も何なのだが、山陽電鉄の特急車両が梅田まで入ってくるのは今までなかったことなので、ちょっとした感慨を覚えた。しかし、阪神電車の終点、神戸元町をめざすからには、ここで気を引き締める必要もあった。目的はこの特急列車ではなく、あくまで神戸にあったのである。

 発車してしばらくすると地上へ。時折、雪の降り混じる景色の中、列車は緩やかに加速しながら高架線をひた走るようになる。尼崎~甲子園あたりの高架駅はどれも新しく、復旧に合わせて建て替えたような印象を受けた。西宮あたりからは、見下ろす街並に半壊した建物が目に付くようになり、一方で新しい家屋も目立つようになった。中には、倒壊は免れながらも、継ぎ接ぎの施工をした家屋もあって、4年を経て尚、その爪痕を見て取れることに言い知れぬものを感じた。阪神高速道路と並走して走る阪神電車だが、道路が亀裂したり、倒壊した現場がどこだったかなんてことはさすがにわからない。ただ遠くから、当時の惨状を思い、目を瞑るばかりである。魚崎~住吉に来ると、阪神電車が転落した跡だろうか、線路脇に大きな空き地が残っていた。さらに進んで御影あたりまで来ると、仮設住宅らしい建物が現れ、「なぜ神戸に...そう、これは単なる観光ではない」ということを再認識させられた。

 列車は再び地下に入り、元町に着く。表に出ると、何となく雨模様である。街景は一見して違和感ないが、やはり新装した商店が多いことにすぐ気づいた。大丸も大々的に手を加えたらしく、雨に打たれながらも華やいだ感じを外観から受けた。旧正月の催しを翌週に控えた南京町界隈は、震災の跡は特に見受けず、にぎやかな印象。行列を待って買い求めたブタマンをほおばりながら、ここに来た目的の一つ、神戸レンガプロジェクトで寄付したレンガの敷設のポイントをめざすことにした。ボランティア関係でいろいろお世話になっている社会貢献推進室I課長(当時)は、筆者の敷設証明書を頼りに探したが、見当たらなかったと聞いていた。その地点に着いて、拡大図と見合わせて探してみたが、果たして見つからない。元町3丁目商店街の交差点で、人通りの激しい箇所ということもあり、レンガ敷き直しの憂き目に遭ったかと思いつつ、近くにちょうど「慰霊と復興のモニュメント設置実行委員会事務局」なるものがあったので、レンガの舗装工事がいつ頃あったかなど聞いてみたが、事務局自体ができたのが最近ということで、係の人はまるで知らない態。敷設証明書には、「都市計画及び復旧工事、緊急事態等のために予告なく、一部レンガが撤去される場合」云々と書かれているので、その文言に承服して、いったん引き揚げることとした。が、レンガプロジェクト実行委員会からの敷設証明書にある地図を見ると、同じ元町通り商店街のもっと西側にも敷設ポイントが書いてある。まさか全部が全部憂き目に遭うことはないと思い、試しに見に行ってみる。お茶屋の前まで来てふと目を落とすと、うっすらと刻字してあるレンガの群を発見した。お茶屋が折良く茶を振る舞ってくれていたおかげで、足を留め、視線を落とすことができた訳である。

 お茶屋の兄さんにいろいろ様子を聞くと、通りがかりの人はまず気づかないこと、自身も最近気が付いたこと、というくらいだから何とも情けない。(いや致し方ない、とすべきだろう。) こっちが熱心に見入っている上、写真まで撮っているものだから、周囲の人も何となく目を落とし、歓声を上げながら通って行くようになった。レンガプロジェクト実行委員の取り組みも控えめ、というか普通ならどこかに目印や看板でも立てそうなものだが、下手に目立って落書きされるよりはいいから、ここは控えめでいいようだ。メッセージそのものは単純明解なものから、細かく真摯なものまで多種多彩。2つ分で大きな図柄を施したものもいくつかあったし、デザイン的に優れたイラストを基調にしたものもあって、よく見れば全般的に目をひくレンガが多かった。

990211.jpg さて、この一件で、一見では見つからないことがわかったので、もう一度、筆者が寄付したレンガの敷設場所まで戻り、くまなく探してみることにした。すると、茶屋の前で見つけたのとは違い、ずっと小さな塊で敷設レンガがあるではないか! 証明書に示した行・列番号をたどり、注意深く見てみると、そのあたりに「あったあった!」

 敷設証明書でID番号を見た時は驚いたが、数合わせよく「01111」。まさにその番号で、メッセージは「(上段)このレンガが大地の癒やしと(下段)復興の礎となりますように。」 95年8月25日付けで夫婦共同(上段:妻、下段:筆者)で書き記した刻字のレンガがひょっこり収まっていた。今思うとなかなかの名文句である。今回の旅行、実は2月12日に「グリーン購入ネットワーク研究会」があって、つまり仕事で大阪に来たのにちゃっかり乗じたものである。都合よく金曜日が休みの谷間だったので、実現できた。(妻にも休みをとってもらっての同伴旅行である。) という訳で、レンガを見つけた時の二人の喜びようと言ったらそりゃあもう... どうやら、I課長に聞いた情報が思い込みとなり、探し出す気力を減じていたようだ。(いやはや...) 一度は憂き目に遭ったとあきらめていたレンガがこうしてちゃんと見つかったのは、ひとえにレンガが二人を呼び戻したため、と思わざるを得まい。何枚か写真に収めて、引き続き大地の癒しと復興の礎となることを念じつつ、この場を後にしたのであった。

 元町からは、三宮センター街を通り、JR三ノ宮駅をめざす。にぎやかなアーケード街はすっかり震災から立ち直った如く、活気に満ちている。が、途中に大きくぽっかり空いた土地があった。こども向け用品店のファミリアが店を構えていたことを看板が示していた。ここでの活気がこうした犠牲の上にあるということをつなぎとめるような...大げさかも知れないが、そんな風に筆者には映った。もう一つ、記憶をとどめるものに出くわした。それは、三ノ宮駅のごく近くまで来たところ、震災の記録と復興の歩みを一堂に集めた「阪神・淡路大震災復興支援館」(フェニックスプラザ)である。観光ガイドには全く載っていなかった(あるいはきちんとコメントを付していなかった)だけにこれには驚かされた。一見ハコモノ施設といった観もあったが、内容は至って真剣で、4年前の衝撃を思い起こさせるものばかりだった。神戸に来たのは、この目で震災と復興の跡を確かめることにあったので、ここでそれらをまず概観できたのはありがたかった。乗ってきた阪神電車の沿線の被害状況を地図で確かめる。西宮、芦屋、魚崎... 高速道路の亀裂・倒壊が一ヶ所だけでなかったことを改めて確認できた。地図をはじめ、展示内容をコンパクトにまとめたパンフレットがあったので、震災の記録を身近にとどめるには好都合、加えて防災に関する情報も含まれているので、活用できそうである。他にも震災復興補助事業としての「フェニックスセール」や施設のオリジナル「フェニックスグッズ」の案内パンフ、生活復興ブック「ボランティアをしたいときに読む本」などを入手した。資料、記録ビデオともに豊富である。三ノ宮を訪れる人には立ち寄ってほしいと思う。(旅行書や観光ガイドブックにはぜひ載せるべきものと感じる。)

 三ノ宮からはさらに西へ、神戸、新長田方面へ向う。JRは市中、高架路線なので、往路・復路とも車窓からは、空き地、仮設住宅、新旧の建物が混在した商店街や再開発の直中にある街路・集合住宅など、多くを目にすることができた。雨は上がったが、曇天の下に拡がる街・家並みは、どこかしら哀感を漂わせつつ、復興への確かな光明をそこに織り交ぜていた。レンガは少しでも役に立っただろうか、そんな情景を眼下にしつつ、とふと思ってみたり...(合掌)

 明治5年(1872年)というから、今から126年前になる。この年の10月14日に新橋~横浜間に、日本で最初の鉄道が開業、つまり汽車が走ったことを記念してできたのが、10月14日の「鉄道の日」。今年で5年目を迎える。誕生日当日ではないものの、多少お祝いの意味も込めて、10月9日に天城高原に出かけてきたが、帰路で役に立ったのが、今年から発売になった「鉄道の日記念・JR全線乗り放題きっぷ」である。鉄道の日といってもこれまでは、記念乗車券・入場券・プリペイドカードの類が主だったが、5年目を迎えて鉄道の日の意義も深まったのだろう。ともかくこのJRの共同企画はありがたかった。このきっぷ、10月4日~20日までの間に3日分、どこのJRであれ、乗り放題で使える。同一行程3人で1日、同一行程2人で1日+1人で1日、一人で3日連続、一人で日を分けて3日分、などとバリエーション豊富な使い方ができて、計9,180円。1枚あたり3,060円である。青春18きっぷが1枚あたり2000円代前半だから、それよりはちょっと高めだが、5枚つづり、かつバラで使えなくなってしまった18きっぷに比べれば、至って手軽である。(但し、特急・急行に乗るには、特急券・急行券の他に乗車券をさらに追加しないといけない不便さも18きっぷと同様。普通と快速列車しか乗れないのがミソである。出発前に時刻表とにらめっこしなければならない。)

 さて、天城高原へは伊東からバスで行くルートが専らなので、鉄道に乗るのは伊東までである。山手線区内から伊東までは、2,210円だから、単純に東海道線経由で行く場合は、乗り放題きっぷでは意味がない。実は伊東までは、最初からスーパービュー踊り子号で行くべし、と決めこんでいたので、往路は正規の運賃(乗車券+指定席特急券)で予定通り。帰りをどうしよう、と考えていたところに現れたのが、この乗り放題きっぷだったのである。思いついたのは、せっかくJR東日本・東海の分け隔てがないのだから、熱海から西進、富士から甲府に北上して、中央線で帰ってみよう、という遠回りプラン。途中下車した駅までの運賃をそれぞれ合算してみたら5,500円ほどだったので、時間はかかったものの十分おトクな旅になった。富士山の西側外縁を富士川に沿って廻り、富士と甲府をつなぐのは身延線。学生時代に全国を鉄道行脚したものの、こうした支線にはなかなか乗る機会が得られないもの。このきっぷのおかげでようやく乗車することができた。

 富士山を遠望しながら、平野部をのんびり走っていくものと思っていたが、富士宮を過ぎてからは、何となく勾配が出てきて、富士川の中流・上流と溯るに従って、山間部をせめぎ走るようになったので意表を衝かれた。飛騨を貫く高山本線の車窓から見るのと同じような景色が随所で広がる。この日の富士山は今年最初の冠雪があったというものの、何となく黒みがかった山容で不気味だったが、ともあれ富士山を拝めるのは、富士から20分ほど走った富士宮近郊までで、そこから先はこんな山合になるのである。身延線の中間にあたる身延を過ぎると、多少平地が多くなり、田圃や果樹園が目に付くようになる。10月10日は晴れの特異日。この日も前日の快晴から続く、夏日のような陽射しに時折見舞われたが、さらに北上し、甲府盆地に入って来て、田畑が浩々と広がる景色に変わると、一面に降り注ぐのはやはり秋らしい穏やかな日差しだった。収穫期の盛りにある田圃では、刈った稲わらを積む作業に携わる人垣をところどころで見かける。日本の田園風景の豊かさと実りの秋の一端を感じることができ、有意義だった。

 往路のスーパービュー踊り子に話を戻す。これは筆者が通勤で使う埼京線を出中かすめていくので、何とか乗る機会はないものだろうか、それも池袋から展望車両に乗り込んで、とかきたてられていたのをようやく今回実現させたものである。1カ月前に朝一番で展望席を押さえられたのは幸運だったが、進行方向、つまり下り方面の先頭展望車両がグリーン車であるなどというのは知る由もない。押さえたのは最後尾の展望車最前列だった、というのに気づいたのが、当日、池袋駅のホームでのことだったからどうしようもない。スーパービューは、東京発通常の踊り子号の指定席料金にさらに上乗せの料金になっている。となれば、先頭展望車のプレミアムはその上乗せの範囲内と考えるのが常道だと思うのだが、実に甘かった。新宿南の高島屋タイムススクエア、恵比寿ガーデンプレイス、埼京線から横須賀線に乗り入れる際に通過する大井操車場のポイント、みな後向きである。押さえた展望車座席が最後尾と知って驚く乗客は他にもいたが、何だかんだでこうした鉄道の旅にハプニングはつきもの、と割り切ることにして、後ずさりする展望を楽しみながらの往路となった。

 さて、平成10年10月10日を記念に扱うきっぷを旅中、探してはみたが、甲府にあった程度でいいのが見つからなかった。ということもあって、翌11日には、鉄道の日にちなんで開催される「鉄道フェスティバル」に足を運ぶことになる。全く以って鉄道の日三昧である。会場の日比谷公園は、天気に恵まれたのはいいとして、ポケモンアトラクションとかなんとかのおかげで、親子連れを中心に大にぎわいだった。スポンサー企業の出展が増えた分、ゲームコーナーなども盛んで、過去4回のフェスティバルとは趣を変えて、すっかり大衆型イベントになっていた。(予告ポスターにしても然り!) とはいえ、小田急線の停車駅案内のボードなぞを抱えている人がうろうろするあたり、やはり鉄道イベントに間違いない。ステージの対面、日比谷公会堂側に行くと、民鉄(日本民営鉄道協会)の合同テントがあり、ようやく本来の鉄道フェスティバル然とした臨場感を得ることができた。

981011.jpg 今年は第5回という節目のせいか、民鉄の出展数が多いのに驚いた。大手私鉄各社の他に、北は津軽鉄道、西は広島電鉄まで。岩手県を走るくりはら田園鉄道は、1,000円以上お買い上げで新米500gプレゼント、なんてのをやっているし、関西の私鉄各社は関西弁丸出しで、自社の記念プリペイドカード(当然、関西でその線に乗る時でないと使えない)の宣伝に躍起。東急は東横線新丸子駅のボード(駅名標)を1,500円で売り出す力の入れ様。上毛電鉄や大井川鉄道なんかも出ていて、ちょっとした鉄道博である。筆者は、10.10.10がお目当てだったので、民鉄コーナーでは結局、京浜急行の品川駅硬券10.10.10と11月17日に駅名が変わる羽田駅の硬券10.11.17を買い求めた程度。他には、JR四国が出した「五十崎・十川・八十場の10.10.10記念入場券」(ちなみに駅名はそれぞれ、いかざき・とかわ・やそば、と十の読み方がみな違う。鉄道クイズにはもってこい?!と思われる)を買ったが、ついで?に弘済出版社コーナーの山手線路線図(ドアに貼るシール状のもの)なども買ってしまった。どうもこの手の販売品には相変わらず目がないようだ。こどもがやたら多かったせいで目立たなかっただけかも知れないが、いわゆる鉄道マニアっぽい諸氏にはお目にかからなかった。筆者が会場に着いたのは、13時ちょうどくらいだったから、午前中に来て、ひととおり物色した後だったとも考えられるが、マニアと鉄道各社社員のやりとりを立ち聞きしていると、結構耳寄りな情報が得られるだけに、ちと残念だった。(そんな筆者もやっぱりマニア?)

 そんなこんなで、鉄道の日を前後して、鉄道三昧になるこの時期だが、どうやら毎年恒例になりそうだ。乗り放題きっぷは、あと1回分残っているので、まだ乗ったことのない路線・降りたことのない駅をめざして、旅に出ようと思っている。しかしながら一つ気にかかるのが、10月10日、伊東駅改札で乗車日をスタンプしてもらった際、見慣れないきっぷ故、駅員さんが間違えて3回目の欄にも押してしまい、「誤入鋏印」をもらうハメになったこと。次回使う際、3回目の欄にちゃんとわかるように乗車印を押してもらうと同時に、途中下車で改札を通る時、ちょっと釈明が必要になりそうなのが面倒だ。また何かハプニングが起こるだろうが、それもまた楽し、とするべきか...

980430.jpg 自家用車は持たないことにしているので、自動車が入り用の際は、実家から借用してくる。南伊豆の下田に会社の保養所があるのだが、抽選に当たったので、約1年ぶりに車を動かし出かけてきた。(帰宅したのが5/2夜だったので本稿の発行が遅れました。) 自動車を自分で運転するのは、最近の「ストップ!地球温暖化」にまつわる活動や関わりからも、そして大通り公園とこどもの国で実施したアースデイ・フェスティバルで出展していただいた「クルマ社会を問い直す会」プロデュースによる「道はだれのもの?」の写真とメッセージに共感した手前からも不本意ではある。それなら鉄道・バスを使ったらどうだ、と指をさされそうだが、今回の旅行では自分なりに「エコドライブ」を考えながら、実践してみようという思いもあって、あえて車を使うことにした。(加えて下田への道すがら、三島市に隣接する清水町の境界近くにある柿田川の湧水池(写真)を見に行きたかったという隠れテーマもあったが)

 まず、アイドリングストップ。黄信号から赤信号に変わる段階で停止した場合(つまり信号待ちに時間がかかると読んだ場合)、はじめのうち何度かエンジンを止めてはいたが、やはりエンジン再始動時に燃料を食うようで、E←→Fの針がEに傾くのが早まるのに気づいた。という訳で残念ながら信号待ち時のアイドリングストップはあきらめた。帰宅手前の赤羽界隈で国際興業バスの後ろで信号待ちしていたところ、このバスが「アイドリングストップ」宣言バスで、青信号に変わったとたん、エンジンのスタート音が鳴ったのにはインパクトを受けた。青信号と同時に一斉にエンジン音が響く、そんな絵図は決して悪くないと思う。

 荷物は抑えて、スピードも適正に。これもエコドライブの一箇条である。スピードはもともと出さない質なので、問題なく実践できるのだが、周りのクルマとの調整や駆け引きが伴う分、なかなか難しいところではある。東名高速を裾野で下りて、三島市内~清水町~伊豆箱根鉄道沿い~修善寺~湯ヶ島~浄蓮の滝~天城トンネル~河津~白浜~下田、というルートで南下したが、天城越えのあたりは高度がある分、結構なカーブそして上り下りである。緑深い風景を堪能しながら、規制速度通り、なんて言っていられないのが現実で、こっちが法定速度ペースで走っていると、すぐ後ろからクルマが接近してくる。崖下の道幅が広くなっている部分を見つけて止まっては後続のクルマをやり過ごしていく、これの繰り返しである。急カーブやつづれ折りもあるのに、何ゆえにあんなスピードで走っていけるのか、さらに言えば、走って行った先に何があるのか、目的地に着くまでの過程には何もないのか、こうした疑問を常に感じさせる山道走行である。しかしこれはもうエコドライブ以前の問題で、運転マナーや交通法規遵守度を問わざるを得ないクルマが多いということである。環境への負荷軽減と自身や周囲の安全尊重は両立すべきものと心得たい。もちろん山道に限らず、平坦な道路、一般道・自動車専用道を問わず、これは問いかけたいことである。

 車を動かしておきながら大それたことは言えないが、安全を省みない、つまり自己過信によるスピード運転は、クルマ社会の弊害の最たるものの一つ。道路政策や産業政策が助長している部分もあるが、何より個人のスピード信奉に問題があるように感じる。「クルマ社会を問い直す会」の資料によれば、毎年70000人を超えるこどもたちがケガをし、500に上る幼い命がクルマにより奪われている、とある。道路はクルマのためばかりにあらず、もともとは人が通るためのものだったはず。クルマは常に謙虚でありたいと願う。

 よくよく考えると自動車教習所に通い出したのは、今からちょうど10年前。当時はエコドライブという言葉は耳にしなかったが、適正速度&空気圧の話や、運転する前の整備・点検、ガソリンの経済的使用(急加速・急発進は×)など、エコドライブに通じる講習があったことを思い出す。初心に帰って、環境面、経済面そして安全面の両立を考えながら運転したいものだと思った。

 出張扱いで、沖縄へ行く機会を得た。1/23、羽田を8:45に発ち、正午には空港から市の中心部へ向うバスに乗っていた。チェックインするとすぐ、那覇市西3丁目にある沖縄女性センターへと徒歩で向う。電子情報通信学会の一研究会での論文発表のためだ。午後の部の最初、今回の会では招待講演ということで、琉球大工学部の先生による「21世紀、沖縄の雇用中枢はマルチメディア産業か」と題する話を拝聴することができた。沖縄県の様々な実状を交えた産業論で、大変興味深いものだった。内容を小見出し風に書き出すと、ざっと以下の通りである。

1.県の実状

・沖縄県現在人口は130万人だが、2025年までに14%増見込み
・沖縄の国庫財政は約1兆円
・基地の他に資源がない県土
・第3次産業比率は80%と高率(全国平均は66%)
・1国2制度に対して中央官僚は冷ややか
・自由貿易地域構想は下降気味だが、県の自助努力不足とは言いきれない
・100の指標中 全国1位は23、ワースト1位は34

2.沖縄振興策と今後

・振興策向けの特別調整費は50億円
・脱基地経済をどうするか、沖縄にできるのは情報通信産業しかない
・政府の規制緩和が必要、返還前は規制が緩やかだった
・24時間稼働する国際都市構想と東アジアの国際ハブ化
・行革と沖縄政策協議会の矛盾、予算削減か拡大か
・琉球大学は新たに理学部を設置、マングローブや珊瑚礁を研究予定
・優遇税制(法人税35%控除、雇用者数最低50人)の推進が求められる
・マルチメディア産業の即雇用性に期待
・地理情報システムのモデル地区構想(沖縄、北谷、浦添、宜野湾)
・沖縄の基地問題は曇りのち雨か?
・普天間基地移転も凍結?

 学会での講演にしてはいい意味で異色な内容で、すっかり聞き入ってしまった。今回の研究会は、沖縄での情報産業の未来を語り合う目的もあったようで、結構なことだと思った。

 が、しかしこの講演は決して研究会を意識したものではなく、先生は日常考えておられることを口述したに過ぎなかった、とわかったのは次のような出来事ゆえである。つまり、沖縄県民の方々には、その県土・県史の特異性から、独特の郷土意識、連帯意識のようなものがあって、誰もが当たり前のように県のことを案じているのである。

980124.jpg 本州日本海側、中国・九州地方を雪で覆った寒気団、それと冬型崩れの長い前線の影響で、沖縄は変則的な気候に見舞われた。曇天なのだが、時折強い風と雨が襲う。そんな週末を定期観光バスで過ごすことにした。安里を出て、ルート58を北上、浦添~宜野湾~嘉手納~読谷~琉球村~恩納海岸~万座毛~許田~名護と走る。景観を楽しみながら、バスガイドの話を聞いている。すると、「いや待てよ、これはただの観光ではない」とハッとさせられるフレーズが出てくるのである。基地の間を走る訳だから、基地の説明は言うまでもないが、例えば普天間を通る時、ここは危険が高いこと、住民が騒音に絶えず悩まされていること、がまず紹介される。沖縄海岸国定公園を左に見ながら、右手山腹のゴルフ場の開発で赤土の流失が問題になっていることが語られる。名護市役所を見ながら、あの建物は冷暖房を最小限に抑え、自然の風をふんだんに取り入れる構造になっている、なんて話まで。さすがに読谷村が1993年の環境自治体会議の開催地だ、なんて話までは出なかったが、基地問題や環境問題に対する意識の高さを端々にうかがうことができた。

 名護から先は、海沿いに本部町に進み、かつて国際海洋博が開かれた国営公園まで。帰りは、海沿いではなく、八重岳の道を緋寒桜を拝みながらの乗車である。名護~許田までは往路と同じ。許田からは、沖縄自動車道を通って、沖縄市の北口まで進む。沖縄市がかつてコザと呼ばれていた話、そして日本に返還される前、コザでは白人・黒人の兵士間で縄張り争いがあった話などを聞く。何とも信じ難いエピソードである。

 ホテルに戻ってから、地元紙に目を通す。県民アンケートの結果が載っていた。「あなたは日本人か、それとも沖縄人か?」、対する回答、「沖縄人」...実に80%とある。他にも基地問題や環境問題に対する関心度の高さを示す数字と、そうした問題を自分のことのように語るコメントの数々。沖縄県の歴史や風土については、観光バスツアーの翌日、1/25に出かけた首里城公園内の展示室でじっくり見学したが、やはり本土とは趣を全く異にする。アジアの海洋貿易の拠点として栄えた時代、周辺国から様々な文化を受け華やいだ時代に思いを馳せながら、県民の方々の沖縄人としての誇りと風格の高さの理由を感じ入るのであった。

 さて、東京に暮らす人たちには、東京人という郷土意識、連帯意識は果たしてどの程度あるだろうか、とふと思う。

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