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 前回は第60話で、電車車内に限ってだが、マナーに反する例を論ってみた。今年10月14日に7年目となる鉄道の日を迎えたことでもあるし、今回は前回とりあげなかった駅構内での由々しき事例を書き連ねてみようと思う。第60話同様、ただ書き連ねるだけでは面白くないので、筆者独断でランク付けして紹介する。尚、筆者はここに書く範囲ではうしろめたいことは一切ないので少々強弁である。ご容赦いただきたく。(法に触れる行為や、いわゆる迷惑行為は書くまでもないので除外する。)

*首都圏のそれなりの鉄道ターミナル駅での場合を想定(洗面所等に関しては書くに忍びないので割愛する)。

 まずは惜しくも次点となった行為から。

次.自動精算機や券売機でのタイムロス

 これはスーパーやコンビニ、ファストフード店、各種施設のチケット売場等々、列を作って勘定する場面に共通して言えることだが、駅の自動精算機や自動券売機でも、自分の順番が来る前に予め財布やら、小銭などを用意しておかない人が案外多いことに気が付く。有人の窓口で切符を買ったり、精算したりが当たり前だったのは、そう遠い昔の話でもないので、有人対応に馴れたご年配の方々にとっては自動機そのものに対する抵抗もあるだろう。有人であっても予め用意しておくのが筋だとは思うが、何事につけ今よりもテンポがゆったりしていた時代にあっては、自分の順番が来てから財布を出すことに周囲も寛容だったから許されたのだろうと思う。

 ともかく今では、複数の券売機で列ができている時、どこに並ぶかによって、えらい時間差がつくことがある。失礼ながら、できるだけ年配の方や不要領そうな人がいない列に並ぶようにしているが、若いサラリーマン風の人の後ろであっても、カード残額が足りなくて慌てて財布を取り出したりするもんだから、タイムロスが皆無ということは少ない。心して臨みたいものである。そもそも券売機も精算機も、切符・定期券・プリペイドカード類の入口、硬貨の入口、紙幣の入口の3通りがあって、出口もこれに対応して3通り、というのが多いから、複雑極まりなく、致し方ない面はある。お金やカードをいくら事前に用意したとしても、入れる順番から、出てくるものを捌く順番まできっちりこなさないと、どっちみちタイムロスは生じてしまうのである。

10.ベンチの占領

 大きな駅であっても十分な数のベンチが置いてある訳でない。特にラッシュ時に乗客が多いところは、ホームの拡張工事以前に、ホーム上の設備を減らすのが早道になってしまうもんだから、ベンチも減る傾向にあるようだ。という訳で、席数が減った分、強硬派のご年配やご婦人方、足腰の弱った若者、お疲れ気味のサラリーマンらによるベンチの席取り合戦が一層激化しているように感じる。中にはカバンを放って席を確保し、隣りの喫煙コーナーで一服してから、悠々と戻ってくるような輩もいるし、先客が座りかけている手前で走って来て押しどかしてしまうような悪質なケースも時々目にする。周囲に立っている人が大勢いるのに平気で荷物でふさいでしまう女性客、例の厚底を思いっきり投げ出して笑いほうけているコギャル系など、座った後のマナーの悪さも目に余る。よく考えると、これは電車車内でも共通して言えることではある。

9.改札ブロック & 改札強行突破

 切符やカードの残額不足で、自動改札を止めてしまう人を時々見かける。システム的に仕方ない面もあるが、特にラッシュ時にこれをやられると迷惑極まりない。ひっかかったら、ちゃんと引き下がって精算等する人はまだいいが、要精算切符をほったらかして、強行突破してしまう不届き者も結構目にする。有人改札なら係員がすぐ引き止めに行けるが、自動改札だと周囲の乗客が協力でもしない限り、易々と逃げられてしまう。これは自動化の負の側面と言えるだろう。ピコンピコン鳴ったまま、切符がひっかかっているとその通路がふさがれてしまい、改札効率が悪くなるので、筆者はその隣りを通って切符を抜いておくよう心がけているが、さすがに不心得者を取り押さえるまでは到らない。

 ちなみに、私鉄・地下鉄については、14日から始まった「パスネット」を使えば、切符精算の手間が省けるから、この利用者が増えれば改札ブロックは減るものと思われる。(JRのイオカードとの互換性が持てればなおいいのだが。)

8.順番待ちが崩れる。

 ホーム幅が狭く、十分な待列スペースを作れない場合、つまりハード面での制約があるとすると、なかなか徹底はされにくい。それでもちゃんと列を作って電車を待っている人はいる。その中を割り込んで、待列を崩すなど言語道断。どこに並んでいいのか本当にわからない人ならまだ許されようものだが、わからないフリをする無頼者も現に存在する。特に始発列車を待つ場合、席取り合戦が絡んでくるので、こういうタチが悪いのが紛れてくると事態は深刻である。筆者の前後でそういう不届き者がいた場合、乗車時に思い切り牽制するようにしているが、これも周囲との連係プレーがないと完全には阻止できないので悩ましいところである。

 最近は4扉だ6扉だ、と車両のタイプによったり、「今度の発車」「次の発車」の順番によったり、待つ位置、列の配置が複雑なのに加え、最初は2列で並んで、列車が入ってきたら3列に並び直すなどとフォーメーションが多様化しているので、それがかえってマナー違反者に付け入りやすくしている観もある。

7.ゴミ散乱 + ゴミ無分別

 ホーム上のゴミ問題は、車内以上に厄介である。これは、売店や自動販売機など売る方が充実しているのに反して、売った物品を回収するインフラが貧弱なために起こると言っていい。新聞や雑誌などは、専用の回収箱が出来た分、散乱しているのを見かけることは少なくなったように思うが、飲料缶・ビン・PETボトル、そしてタバコの吸い殻は何とかならないのだろうか。JRの場合、その他のゴミ、カン・ビン(・PETボトル)、新聞・雑誌の3つが受け口になっているが、消費量が増えている500ml PETボトルは、専用箱が独立していない、カン・ビンと受け口が共通になっている旨が明確でない、といったことから散乱し、それに追従してカンやビンも放ったらかしになっているような気がする。

 「その他のゴミ」も、分別が明確でない故に「何でもあり」になってしまい、結果、分けるのが面倒な人は何でも入れてしまうようになり、もっと面倒な人は、そこらにポイ捨て、という行為を生むもとになっているのではないだろうか。駅で売られる可能性があり、かつゴミになりやすいと思われる物品は、ゴミの入口にその名称を全て列記しておいて、捨てる前にゴミについて認識かつ分別してもらった方がいいだろう。

 そもそも発生を抑制する手だてがとられていないのが問題で、ゴミが出ないような売り方をするとか、いっそ販売量や販売ルートを縮小するなど、乗客に不便さを強いるような策があってもいいと思うのだが...

6.ホーム占領、集団圧力

 電車車内に限らず、ホーム上でも同じ事態は頻発している。サッカーチーム、ハイカー集団はもとより、より嘆かわしいのは、ホーム上のそこここでたむろしている推定十代の輩奴である。そこでは彼等独自の世界が展開されていて、極めて排他的。ラッシュ時などで通行の障害になっていようと全くお構いなしである。ゴミ散乱の温床になっている他、携帯片手にわいわいやっている場合が多いから、電磁場の発生源でもある。これでタバコまで加わったら、その場はたちどころに都市公害を凝縮したような恰好になる。語弊があるかも知れないが、自分達の存在が希薄(裏返せば寂しい?)だからと言って、自身の健康を害してまでそんな暗闘をする必要があるのだろうか、と思う。

5.エスカレーター逆走

 エスカレーターにまつわる話はそんなに上位で扱うものでもないと思うが、いわゆる左右の通行区分(片側待機・片側歩行)のマナーや、駆け下り・駆け上りの危険性などを指摘する以上に、衝撃的だった目撃例がある。さすがに誰も下りてこないのを確認した後でのことだったが、一人の十代少年がホーム上にいる少年グループのところめがけて、下りエスカレーターを逆走し出したのにはおったまげた。スーパーにある普通のエスカレーターで小学生くらいのこどもが何段かふざけて逆に走り上るのはたまに見かけるが、分別がつきそうな年頃の男子が、それなりの長さがあるエスカレーターを思い切り駆け上がっていくのだからたまったものではない。下りてくる人と衝突でもしたら、落下して大怪我である。度が過ぎるので5位とした。(筆者はこれを目撃した際、怒鳴りはしなかったが、注意はした。)

4.痰・唾

 公共広告機構では「タン虫」として紹介されているが、マナーの悪い人は徹底して悪いもので、10、9、7位に登場しそうなオジサン連中は共通して、あたり構わず「カーッ、ペッ」をやる。自分でやっておきながら、他の輩が残した痰・唾を踏んづけたりすると、舌打ちしたり、不機嫌になって、追い討ちをかけるようにまた「カーッ、ペッ」。悪循環である。そんなオジサンが多いから、十代少年なんかもマネして「カーッ、ペッ」をやる訳だ。児童向けの道徳教育だか奉仕教育だかを説く以前に、大人のマナー教育が必要と痛感する次第である。

3.ガム

 その瞬間の目撃例はあまりないが、吐き捨てたガムがホーム上にペッタンコになってこびりついているのはいくらでも見かけるし、ひどい時には、エレベーターのボタン部分、エスカレーターの手すり部分にくっついてたりもする。生乾きのものを踏んづけた時、あるいは手で触れてしまった時、それはマナーを守っている多くの乗客に対する当てつけ(挑戦状)のように感じることさえある。痰・唾、放縦喫煙の常習犯と同一の場合が多いようだ。

2.各種不注意、悪ふざけ

 ホームの端、ぎりぎりのところをふざけながら歩いていて、線路に落ちてしまった奴。携帯での通話に夢中になって、電車が入って来ているのに、白線より外側を平気で歩いている奴。挙げ句の果ては、入って来ている電車に蹴りを入れたり、カバンをぶつけて遊んでいる奴。これらは不注意というより、度の過ぎた悪ふざけである。注意しようにも、結構唐突な場合が多いからどうしようもない。これまた十代の中高生に多い事例である。

1.放縦喫煙

 ホーム上は完全禁煙にでもしない限り、まず根絶できないだろう。社会一般では分煙が進んで、喫煙する人は限られたスペースで、というのが当たり前なご時世で、どうして駅のホームでは守れない人が多いのか、と慨嘆しきりである。「終日禁煙」とか「おタバコは」なんて遠まわしかつ変に丁寧な駅アナウンスが放縦者を助長しているのではないだろうか。もっと決然たる言い回しで喚起してほしいものだと思う。きちんと喫煙スペースで吸っている人にも失礼極まりない。

 喫煙所から離れたベンチで堂々と吹かす不貞者、階段を見下ろしながら、昇り降りする人に灰が降りかかる態で吸っている無礼者、禁煙ステッカーが大きく貼ってあるエスカレーター上で平気で煙や灰を撒き散らす愚者、などなど不届きな喫煙者は後を絶たない。自分の体を思いやれない人物が他人の健康を気遣える訳がない。筆者はそういう放縦喫煙(大抵の場合、吸い殻のポイ捨ても同時)を見かけると、加減しながらではあるが、睨み付けるようにしている。

 気負って書いたら、またまた長文(60話に匹敵する4,500字超)になってしまった。これでも実は消化不良なのだが、今回はひとまずここで筆を措く。

 どこからともなく評判を聞きつけて、常に行列ができる店というのがある。昔からの常連にとってはあまりありがたくないところと思うが、常連は常連なりに、行列客を尻目に昔からの流儀やその店ならではのルールを誇る楽しみがあるから、大概は良しとしているようだ。常連さんはそれぞれ思うところがあったり、習慣上通い詰めることもあるから、あまり疑問に思わないのかも知れないが、そうした評判を自ら確かめるべく、いわゆる「行列のできる名店」に足を運ぶと「なぜここが...」と絶句してしまうような事態に遭遇することがある。決して評判・名声にあぐらをかいている訳ではなさそうなのだが、行列をさばくのに手いっぱいで、客一人一人への基本的サービスが行き届かない、そんな印象を受けることが多いのである。

000708.jpg 東池袋駅とサンシャインビルに挟まれた界隈は迷路のようになっていて、その行列店には易々とたどり着けないようになっている。迷路を進むとやがて五叉路が現われ、その一角に目を転じてみる。そこにあるのは、ぐっと時代を感じさせる一軒のラーメン店である。周りの家屋ともども時代を感じさせる風情があってそれだけでもなかなか良いのだが...。行列ができるので有名で、30分待ちはざらと聞いていた。ある夏の日、それは台風一過の日曜日だった。早起きできたこともあって、ここのラーメンでお昼をとることにした筆者は11時30分頃からこの行列に加わっていた。台風が去ったとは言え、空模様が不安定なので雨傘を持っていたのが幸いして、急激な晴れ間・陽射しを避けることができ、余裕を以っての行列待機である。さて、ここからが本論である。手っ取り早くお伝えするため、箇条書きで記すことにする。

《いただけない点》

  • 妻と2人だったので、ラーメンともりそば(つけ麺)を一つずつ注文した。予め注文をとるあたりはさすが、と最初は感心したのだが、実はこれが全然機能していなかった。というより、別々のものを頼んだのが禍となってしまったのである。
  • 店に入ってから気付いたのだが、もりそばとラーメンで完全分離ローテーションを組んでいて、あるロットで固めて、もりそば5つ、その次にラーメン6つ、なんていう出し方なのである。つまり、一度外す(次のローテーション待ち)となかなか出てこないことになる。これはちょうど、複数の系統が通るバス停で、特定の行先のバスをひと度逃すと次がなかなか来ないのと同じ状態、という訳である。
  • 行列時に注文を聞いてくれたオジサンは良かったが、出入口の門番みたいなオッサンが不可なかった。人の注文をちゃんと確認しないからこうなるのだ。筆者らの注文がローテーションに組み込まれなかったためか、なぜか後続4人組の「もりそば×4」に先行され、その後のラーメンローテーションも後回し扱い。次のもりそば&次のラーメンでやっと出てきたのだ。
  • 狭い店内でただでさえ暑い上、途中、席替えを強要され、イライラが募る中、結局店内に入ってから、20分以上待たされた。列に並び始めてからだとすでに1時間以上。客の時間を何だと思っているんだろう!
  • 門番のオッサンの愛想が良くないことと言ったらこの上ない。詫びの一つもないんだから呆れたものだ。(会計のオバサンも無愛想だったなぁ...)
  • 肝心の麺はと言うと、一口・二口目はそれなりのインパクトがあったが、量が多い(何と250g)だけに、残念ながら麺の程良さが持続しない。つまり汁が浸み込み過ぎて、口の中でもたつく感じになってしまうのである。3分の1を食したあたりで正直うんざりだった。
  • 量が多いので、みな食べ残して、会計の前の残滓入れはすぐいっぱいになっている。(ここは食べ残しの後片付けはセルフなのである。衛生上問題ないのだろうか...)

 という訳で、麺自体も大した評価には到らず、筆者ランキングでは、20位以下(いや30位以下か)、とにかく圏外である。

《まぁ評価できる点》

  • 常連客のマナーが悪くないので、ひとまず安心して並んでいられる。
  • 帰り際のセルフ後片付けは、皆、文句もなく黙々と済まして行くから、何となく清々しい。(食べ残しはいただけないのだが...)
  • とにかく安価で量が多いから、それで満たされる人には打ってつけである。

 たとえ、安い・旨い・多いの三拍子で評価を受けているとしても、これで行列店として評価されていいのだろうか、という疑問は残る。行列の本質をつきつめる(そもそもなぜ行列ができるのか考えてみる)と、1)ローテーションシステムが機能しない場合、予め注文をとってあってもすぐに出て来ないから、客一人あたりの時間が長引く。2)量が多いから、やはり滞在時間が長くなる。3)店内が狭く、入店できる人数がもとから限られている。等々、単に行列を少なくするための工夫がないために、行列ができる、それを「行列=名店」と考えるとしたら早計なのではなかろうか。

 もう一例。等々力駅・上野毛駅から徒歩15分(ゆっくりめ)程度のところ、用賀中町通り沿いに、芸能人も通う店として超有名?!なうなぎ屋がある。筆者がかつて等々力に暮らしていた頃、自転車でその店の前を通ることはあっても、実際に入店しようなんてことはまず考えなかった、そんな店である。第59話で紹介した例の番組で先般「上野毛」編が放映され(相変わらず世田谷びいき...)、その店が上位に入り、いろいろ素性がわかったので、意を決して行ってみることにした(この日は等々力渓谷で恒例「ほたる祭り」もあったので)。番組につられて、即ちミーハー的なところがあるので、威張ったことは言えないのだが、されどそういう客だからこそ、むしろ大事にしてもらいたいものである。

《いただけない点》

  • 「ぐるなび」に載っていたのでEメール予約するも、受付無効との返事。何でもシーズン?!中は常連でも受け付けないのだそうだ。そういう時節は、常連さんは避ける、と聞いていたのだが、着いてみたら案の定、長蛇の列。何か話が違うなぁ。
  • 土用の丑をあえて選んだのが不可なかったのだが、「うな重(イ)」が「ぐるなび」では¥2,500だったのに、この日はJRの帰省シーズン料金よろしく、特別料金の¥3,000、これには参った。
  • 12時前から50分程待って、ようやく通されるも、当方この日は3人だったので、折り良く4人掛けの座敷卓で収まるかと思いきや、相席で5人掛け(2+3)を強要され、しかも筆者のはみ出し席は、座布団のみで背もたれはなし。他の3人組は悠々と4人卓を1卓占めているのに、である。そこは当然4人のところ、3人だから背もたれは余っているのである。一つこっちに回したらどうなんだ!
  • お茶のお代わりを頼んでもちっとも出てこない。のべ5人目でやっと出てきた。他の卓はわりとさっさと出しているのに、である。
  • 肝心のうな重は、と言うと、自慢の国産鰻だからなのか、少々泥臭い感じがした。ここは使っている水が小山酒造同様、地下からの汲み上げだそうだから、水は良さそうなのだが、その水を使って炊いたせっかくのご飯の味が、鰻の臭みで減衰してしまっている印象を受けた。(それが名店の「妙味」なのかも知れないが。)
  • 店員が解説してくれないから、注ぎ足しのタレも、山椒もどれだかわからず、途中で気づいて慌ててかける始末。山椒を早くかけていれば、もうちょっとは玩味できたかも知れない...。

《まぁ評価できる点》

  • 建物の風情、常連客と思しき人達の立ち居振舞い、店員の基本的な接客姿勢、はやはり良かった。
  • 値が張るだけに、うなぎそのものの大きさは圧巻だった。肝の吸い物も感服した。
  • 一服する人が極めて少なくてホッとした。うなぎを食すのに煙は無用である。

 この店の場合は、土用の丑当日・前後日に特に行列店になるそうだから、前例のラーメン店のような行列原因の解析は当たらない。しかし、冒頭に書いたように、行列日になると、その待ち客や注文ラッシュをさばくのに手いっぱいとなり、客一人一人への基本的サービスが行き届かなくなってしまう、というのはやはりいただけない。

 てな訳で今後は、行列のできる理由、行列ができた時の対応ぶりを予め吟味した上で、本当に秀逸な行列店を自ら見出してから行きたいものだと思うのであった。

 ファッションショー、特に水着ファッションショーは季節性と全く別の次元で真冬に開催されたりする。これは市場関係者向けの内覧会のようなものだから、「はぁ、そうですか」という程度で特に不快感はないところ。

 しかし、いくら商業的にセオリーというかアプローチがあるとは言っても、季節に合わないテレビコマーシャルを流していい、という道理はないように思う。一足先に市場を掘り起こしたい、という気持ちはわからなくないが、市場関係者向けと同じような感覚で一般視聴者に働きかけてもらいたくない、というのが正直な感想である。

 外で雪が降るような時季に、桜舞い散る中でお茶を飲んでみたり、春浅い頃に、真夏の浜辺でビールの泡が飛んでみたり、はて今度は夏真っ盛りだというのに、紅葉と一緒に「秋味」?の飲料が出てきたり、秋の涼しさを体感している最中に、雪降る中をゴホゴホやって「はい、風邪薬」というのはどうもいただけない。

 見ていると、その季節でないと需要が喚起できない商品が前倒しで宣伝されているような傾向があるように思う。早めに宣伝することによって、人々の記憶に浸透させておけば、シーズンが到来し、本格的に店頭に並んだ時に、直感的に手を出してもらえる、という効果が期待できるからだろうか。それでも化粧品(特に紫外線予防の類)は、ちゃんと季節に合わせた展開をしているように思うし、ハンディビデオレコーダーに関しても、運動会シーズンに照準を合わせて流しているようだから、やはり前のめりの業種は一部に限られるようである。

 手の込んだ画像が簡単に(実際には多くの費用と時間がかかるのは言うまでもないが)作れる時代ゆえ、ちょっとしたロケなりセットなりで季節感が醸し出せてしまうのが何とも歯がゆい。CGにしてもそう。季節を描写する臨場感や迫力が大きくなっているからこそ、逆に現実の季節の感覚というものを大事にして欲しい、と思うのである。加えて残念なのは、季節に先行して流されるコマーシャルは、そのコマーシャルの「旬」になるとあまり見かけなくなってしまうこと。旅行関係のコマーシャルは致し方ないにしろ、そのままその季節・旬に乗じて放映してもらえたら、というコマーシャルは過去にもいろいろあった。ブラウン管を通して、今その季節に生きていることを実感できるのだから、こんな安上がりでいいものはない。たとえ15秒でも30秒でも、短い時間に凝縮されている分、そこに流れる季節景・季節感は鑑賞に堪えて余りある。「絵」が美しければなおさらである。

 夏のさなかにテレビを見ていて、ふと綺麗なリゾートが映る、青空と砂浜が広がる、熱帯魚が群泳する、渇いた街並に光が降り注ぐ、そんなシーンが現われると、何とはなしにスカっとする。寒い中を帰って来て、見遣ったテレビから暖炉、ガス燈、スープ皿、ポット、湯気等々、暖かみのある絵が出てくると、ホッとするし、心休まる、てな具合である。テレビコマーシャルが季節を演出する働きは大きい。季節感ばかりが印象に残ってしまって、肝心の商品を覚えていない、となるとスポンサーには気の毒なことだが、季節に合わないものを出して反感を買うよりははるかにマシだろうと思う筆者である。

 今、流れているコマーシャルの季節性はどうだろうか? このくらいの季節だとさすがに真夏モードになっていても違和感は覚えないが、逆に6月らしいものがどれだけあることか。テレビコマーシャルは、そんな見方で視てみるとまた違った面白さも出てきそうである。

 銀行間での競争原理が何となく働き出したあたりから、往年のアニメなどのキャラクターやマスコットをやたら銀行店頭で見かけるようになった気がする。競争はすれど、日本の都市銀行の横並び体質は結局同じ。某海外系金融機関のように通帳をなくすとか、土曜日も窓口を開けるとか、どんな時間の出し入れでも手数料無用とか、そうした利便性やサービスの質で競うことはない。いかに大御所のキャラクターを取り込むかで競っているようで、何とも心寒い。(キャラクターは違えど、それに依存しようとする点では所詮横並び。)

 もちろん、そのキャラクターを愛好する人にとっては、どんな形であれ各種キャラクターグッズが手に入る喜びは代え難いだろう。しかし逆に、真摯にそのキャラクターに思い入れがある人には、某銀行の店頭やら窓口やらでそのキャラクターが氾濫している様(まして通帳を持たされたり、ATMで出し入れしている絵だったりしたら、なおさら!)を心から良しと思えるだろうか。昔見たテレビ画像の中、昔買ってもらったおもちゃや人形など、本来なら淡い記憶とともに大事にしておきたいキャラクターが、やたらクッキリした配色で、でかでかとポスター化されて掲げられていたら、全く以って興ざめだろう。仮に、その人にとってかけがえのない「想い出の形」たるものが擁護される、という権利保証があったなら、その侵害にあたることにもなるように思う。

toyo.jpg 銀行とキャラクターの相関関係で、主だったものを挙げてみよう。ざっと次の通りである。

あさひ銀行:ミッフィー、三和銀行:スヌーピー、第一勧銀:ハローキティ、東海銀行:バックスバニー、東京三菱銀行:ディズニー、東洋信託銀行:ケンケン(チキチキマシン)、北陸銀行:ムーミン、三菱信託銀行:ピーターラビット、横浜銀行:トムとジェリー...

 さくらと住友、第一勧銀と富士など、大合併を控えているところは、今後、こうしたキャラクターをどう扱っていくのかが見モノだが、合併後に軽々とキャラクターをとっかえたり、別のキャラクターに乗り換える、といったことが起こるとしたら、まさしくキャラクターを軽視している証拠(単なる客引きの道具という捉え方)だし、心からの愛好者に対する無礼にあたると思う。その人にとってのかけがえのない想い、というのはどのキャラクターにもきっとある訳だから、それを毀損せしめていい道理はない。元来、キャラクターというものは(年を経たものであればある程)、公共財に相当する面がなくはないと思うのである。申し訳のように、CやRを○(まる)で囲んだものが隅っこに併記されてはいるが、いくら使用権を得たとしても、いくら使用料を支払ったとしても、特定の事業者が特定の商業目的に使うのはいただけないと感じるのは筆者だけだろうか。

 キャラクターやマスコットを設けるなら、独自のものを生み出し、育て、いずれは社会的に愛されるものにしていこう、という方がはるかにいいし、企業姿勢としても評価できる。実際、企業キャラクターが国民的アイドルになっていったケースは山ほどある。カールおじさん、クロネコヤマト、ケロヨン、チョコボール、不二家、ヤンマー...最近ではモモ、ドーモくん、QOOあたりだろうか。ユニークで楽しいものが多く、直感的に企業を覚えてもらえることにもなる。キャラクターはオリジナルに限る、と思う。

 よく考えると、具体的な製品やブランドを持たない企業(特に金融・保険系)、かつ羽振りのよい業界がキャラクターを濫用する傾向にあるようだ。住友生命のピングーはまだいいが、某消費者金融でサイボーグ009が出てきたのにはあきれてしまった。キャラクターの持つ公共性を損なうこと必至だろう。

 キャラクターに限らず、往年の大女優を飲料の広告で使うのもどうかと思う。バックに流れる曲がクラシックかイージーリスニングなどならまだしも、よりによってCHARAだったりするから、余計によろしくない。名画の中で大事にしておきたい「絵」や往時の想い出を大事にしている人にとっては、気分を害されることこの上ないのではなかろうか。これには違和感を覚えずにはいられない筆者である。

 東京モノローグ、おかげ様でスタートから2年半が経過。第60話を迎えたことにひっかけてふだんから気になる話題(というかちょっとした義憤だが)を一つ。

 駅や電車は社会の縮図のような観がある。社会全体のマナーの程度を知るバロメーターとも言い得るだろう。マナーの良くない人に多く出くわすような時分には、大抵、世相が物騒だったり、暗かったり、ということが増えてくる気がする。駅を含めてそうしたマナーについて書きたいのはヤマヤマながら、駅となるとエスカレーターや階段から、構内の売店から、ホームから、果ては改札に至るまで、様々なシーンが想起され、とても書き切れそうにない。

 という訳で、今回は電車車内に限って書き出してみようと思うのだが、ただ書き連ねるだけでは面白くない。そこで、ご法度と思しき例を筆者独断でランク付けして、憤懣をぶつけることにした。少なくともここに書く範囲ではうしろめたいことはないので、揚々たるものである。(法に触れる行為や、明らかな迷惑行為は書くまでもないので除外する。)

 まずは惜しくも次点となった行為から。

次.スペースを有効活用しない。混雑に拍車をかける。

 第52話でも書いたが、程々のスペースがあるのに関わらず、相変わらず混雑を好む人が多いのには呆れてしまう。マナーの悪い人がいたり、悪臭がする、という事情で避けた結果、特定箇所が混むというならまだしも、そういうこともないのに、ただ漫然とかたまっているのはどうか、と思うのだ。ちょっと歩を進めて間隔を確保すればお互い快適に過ごせるだろうに。マナーという程のものではないと思うが、ひと工夫してもらいたいものだといつも感じる。

10.(始発や終電で見かける)ロングシートでの睡眠

 いろいろイヤなことや心労があってのことと思うが、いくら人が少ないからと言って、ロングシートいっぱいに寝そべって、ガーガーやるのはいただけない。終電で終着駅まで寝過ごしてしまっても、車両基地で一晩過ごしてそのまま始発、というのは余程のことがないと成立しないと思うが、中にはそういう人もいるだろう。それはそれで気の毒でもあるが、やはり周囲の人には迷惑この上ない。

9.優先席に堂々と座る。

 筆者が中高生の頃など、優先席に堂々と座るのは、見るからに不良っぽい輩か、タチの悪い中年くらいなものだったが、90年代以降、優先席はすっかり一般席と化してしまった感がある。何とも嘆かわしい。試行錯誤の末、阪急電車は全席優先席扱いにしたと聞くが、その方が単純明解でいいかも知れない。もっともあくまで優先なので、専用ではない(これは優先道路・専用道路と同じ解釈)から、優先すべき人が現われたら譲る、というのが趣旨なのだろうけど、斯様な語意をきちんと理解している人が多数派とは到底思えないから悩ましい。しかも、この趣旨に沿って優先席を譲ろうとすると、無碍に断るお年寄りもいるから、なお考え物である。

 自慢ではないが、どんなに閑散としてても筆者は優先席に座ったことは一度もない。又、席を譲るべき状況に遭遇した場合は「どうぞ」とは言わず、次の駅でいったん降りてしまって、別の扉から乗るようにしている。その方が遠慮なく座ってもらえるからである。

8.車内の貼り紙・吊り紙の損傷

 気に入った芸能人の広告を失敬してしまう不届き者もいるが、それは言語道断(立派な盗難であり、営業妨害)なので、ランク外。失敬しようとした跡か、破れていたり、はがれかかっていたり、というのも時々見かける。まじめな中吊り広告で読みたい部分が失せているのも困りものだが、もっと困るのは、扉の上部にスライド状に入っている「停車駅案内」などが一部破損していて、駅名がわからなかったり、という事態だろう。ラッシュでつかまるところがなくて、苦し紛れに破いてしまったのなら目を瞑るが、単なるいたずらだとしたら、ハタ迷惑な話である。

7.席が空いているのに座らない(空いた席の前に立ちふさがる)。

 優先席だろうが何だろうが座りたがる人がいる一方で、何故だかわからないが、立っていて目の前が空いたのに座らない人もよく目にする。他に座りたい人がいるとしたら、そのまま立ちはだかっていては邪魔極まりないのだが、多くは全く素知らぬ態である。ちょっと横に逸れるだけでいいのに、どうしてできないのだろう。よける余地がないなら致し方ないが、そんな時はただでさえ混雑しているのだから、座りたくなくても座るのが礼儀だと思う。その人が座ることで立っている人には空間的余裕ができるのだから。

6.化粧+足組み(しかも厚底靴で)

 最近はあまり見かけることはないが、大きな鏡、大きなブラシを取り出して、パタパタシャカシャカ、というのは見るに堪えないものがある。本人は実は淋しがりやで、そういう行為で気を紛らわしたり、人目を惹くことで自己確認しているんだろう、というのが当たっているなら、多少大目に見ようとも思うが、いやいや。ある日、立川から乗った南武線車内で見かけた時は、延々と30分以上も興じているので、一体何にそんなに時間を要するのか、と些か腹立たしさも覚えた。

 化粧だけならまだしも、そういう化粧っ娘は決まって厚底靴だったりするので、二重に厄介である。あの厚底で堂々と足組みでもされたら、仮に車内が空いていても、通路を通る時、チョー障害物である。

5.急乗車、急降車。急降車をさえぎる 降りない&よけない行為。

 いわゆる駆け込み乗車だが、それだとどうもインパクトが弱いので、「急乗車」と筆者は言っている。戸口にいる時は、急乗車する人から受ける被害(圧迫、踏み付け等)を防ぐため、突っ込んでくる人がいたら、いったん降りて交わして、乗り直すようにしている。

 急乗車よりもっと考え物なのが、急降車である。某栄養ドリンクの宣伝でもあったが、急に気付いてあわてて降車する人は本当にブーイングものである。予期せぬ混雑に見舞われて、その人なりの「降車シナリオ」が崩れてしまった場合は致し方ないが、全くの無計画降車は遠慮してほしいものだ。

 さらにそれに輪をかけて困ってしまうのが、そんな急降車をわざと邪魔するかのような周囲の非協力さ加減である。ちょっと詰めるなり、戸口にいる人はちょっと降りれば良さそうなものだが、周りが冷ややかだったりすると、その周りを巻き込んでの一大パニックに発展する。ブーイングはもっともなのだが、自他ともに活かす途を考えて、ちっとは協力すべきだろう。

4.集団圧力をかける。(例:サッカー少年団、ハイカーズ...)

 これは駅のホームにおける場合が顕著だが、とにかく群れる人達の悪態ぶりは目に余る。酔っ払い集団も渋面モノだが、もっと困るのは、一つはいわゆる少年サッカー系のこどもたちとその引率者の一団、もう一つはご年配のハイカー(又は登山者)集団である。

 まず前者。電車に乗り込む時の無秩序さは際立っている。この間など、近づく電車に蹴りを入れている野郎を見た。こういう団体の引率は母親の場合が多いが、多くは話に夢中で少年達が何をやっていようとお構いなし。その母親のファッションがまたワンパターンで、丈の長い薄手のジャンバーコートか何かで、ポケットに手を入れたままフラフラしているから、見るからに「なんか文句あんの」と威圧するかのような態である。電車に乗ってからの彼等の行動形態は推して知るべし。

 後者は何と言っても席の争奪戦&車内での大騒ぎが特徴的である。出かける先が中距離なので、クロスシートの車内でよく見かけるが、空いた席を目がけて突進する様は筆舌し難いものがある。うまく向かい合わせのクロスシート(四人様席)をまるごと押さえられたら最後。車内宴会のはじまりはじまり、である。座れなかった場合は一転して穏やかなもので、荷物を前に抱えるなり、棚に載せるなりでマナーにおいても敬服させられるのだが、席に着く着かないで、どうしてこうも極端なものかと慨嘆してしまうのである。

3.缶飲料の飲み残し、スナック菓子の食べ残し等の放置

 特に暑い季節は清涼飲料の缶が飲み残しが入った状態で車内の床に立てて置いてあることがある。ずっと立ったままという保証があるならまだしも、加速や揺れの激しい列車では横転するのは目に見えている。飲み残しが毀れて拡がった折りには悲惨である。糖分の濃い飲み物の場合、ガム同様、踏んづけるとベタベタして気持ち悪いことと言ったらない。

 飲み残しがなくとも空缶が転がっているのはやはり困りもので、これがもとで無言の足々による責任のなすりあいが始まってしまうから嘆かわしい。筆者の足元に転がってきた時には、ひとまずキープして、降りる時に拾い上げて、最寄りの空缶入れに放るようにしている。無言でさりげなく、がポイント。

2.携帯電話

 大声でのやりとりがうるさいから、とか、着信音(他に個性を反映させるツールはないものかと思う)がやかましいから、というのは確かにそうだが、携帯電話は何が害かと言えば、何はさておき電磁波だと思う。音が漏れないように工夫しつつ、車内で静かに音楽を聴いていると、にわかに耳を低く震わす不快な振動音が伝わってくる。不思議に思って周囲を見渡すと、必ず近くで誰かがケータイで話をしている、というのが判明した。もともと旧式かつ安物のカセットプレーヤーで、それに付属するイヤホンを使っているせいだが、ホンの磁石?!が電磁波に反応して、唸りを上げていたと推定される。この共鳴を手がかりに、どこでケータイを使っているか探知できてしまう(これぞ逆探知?)訳だ。

 これは耳にも脳にも悪そうだ、というのを身を以って体感している筆者は、人一倍ケータイには警戒心を持っている。ただのイヤホンでこれだから、ペースメーカーへの影響は尋常じゃないだろう、とつくづく思う。今のところ、事故例は聞いていないが、ケータイがもとでペースメーカーが誤作動して死に至らしめるようなことがあったら、使っている本人はどうするつもりだろう。犯罪行為になる前に自制すべき、と強く思う。(余談だが、筆者はケータイ不携帯(不所持)者の一人である。)

1.嗅覚へのダメージ

 見たくないものは目を閉じればいい。聞きたくないものは耳を塞げばいい。だが、嗅ぎたくない匂いはどう防げばいいだろう? 電車車内は走っている間は言わば密閉空間である。窓が閉ざされた状態では、不快な匂いに対して抗う術がない。これは何にもまして困った事態である。

 当事者はあまり気にかけないだろうが、例えば独特の匂いを放つ煎餅や酒のツマミの類は耐え難いものがある。新幹線やホリデー快速などでこれをやられる分には、行楽の要素があるから、我慢すべきと言われればそれまでだが、帰りの通勤電車の車内で缶チューハイ片手に各種強烈な匂いを発散された折りには、憤怒やる方ない。こういうのに遭遇したら、注意したところで絡まれるのがオチだから、場を離れるか、車両を移るしかなかろう。

 汗臭さや酒臭さも然り。何故かアンモニア臭が漂うこともあるが、いずれにしろ太刀打ちできない。強力なマスクをするなり、お気に入りの香り小袋か何かを常時持ち歩くなりして、自衛的に不測の事態に備えるしかないのだろうか。とにかく車内の匂い問題は筆者にとって重いものがある。

・・・

 つい力が入って長文(60話中、最長の4,500字超)になってしまったが、これをお読みの皆さんの中で仮に気を悪くされた方がいたら、どうか一つご勘弁の程を。(もし「こんな事例の方が許せない」というのがあれば、ご一報いただけると幸甚である。)

 クリーンアップ等、美化清掃活動を繰り返しても、なかなか減らない散乱ごみや不法投棄ごみ。そうしたごみを元から絶つために、拾ったごみのデータを集め、業界団体等に対策を求める一方、捨てさせないために、きれいな状態を維持するなり、マナー向上を呼びかける等の努力を続けるものの、なかなか根本解決には到らないのが現実かと思います。

 クリーンアップという手段の他に、散乱や不法投棄をなくし、環境保全、生態系保全につながるごみ対策はないものか。ここで、いくつか考えられる策を記させていただきます。

1.グリーン購入の視点

 ごみはモノの最終形です。散乱ごみについても、拾って、分けて、再資源化できるなら、立派な資源なのですが、風雨にさらされ、資源化できなくなってしまった「ごみ」が多いのは自明です。何とか分別して、使えるものは再資源化して、微量でも循環系を創り出せればいいのですが、そうしたルートや仕組みを散乱ごみで作るのは至難です。

 メーカー側には、資源リサイクル法(再生資源の利用の促進に関する法律)や容器包装リサイクル法の縛りで、放棄されてしまったごみを放置しておけなくなる状況に直面することも想定されますが、通常のルートに乗らないごみについては明確な規定はなく、当然、回収義務や罰則が伴わないので、結局、消費者のモラルに依存せざるを得ないのが実状と思われます。

 相対的に環境負荷の少ない製品やサービスを選んで購入することを広く「グリーン購入」と言います。消費者同様、企業にもそうした環境負荷低減型製品・サービスを利用する、ユーザーとしての立場がある一方、特にメーカーは、実際にそうした製品・サービスを作り、提供するサプライヤーとしての立場もあり、二面性があります。サプライヤーとしてのグリーン購入は、グリーン仕入れやグリーン調達という言い方もしますが、①環境負荷を抑えた流通経路で部品・原材料を集め、環境負荷の少ない製造工程で作る、②再生素材を多く取り入れたり、リサイクルしやすい設計や構造にしたり、長期使用に耐えるものを作る、③有害物質を排斥したものや省エネ・省資源型の部品・原材料を採用する、といったことを総じて、グリーン購入と考えるメーカーが増えています。

 クリーンアップで回収したごみを徹底的に分別し、再生できる状態に持っていけば、このサプライヤーとしてのグリーン購入につながるルートが開拓できる可能性があります。ペットボトルを再利用した衣料品や雑古紙を使った印刷用紙や梱包材はよく引き合いに出されますが、この他にも、貝殻の粉末を配合した消しゴム、CDケースの透明な部分や車のバッテリーケースを再生して作ったボールペン(軸)、ウィスキーの樽を使った家具や鉛筆、ポリエチレン(PE)の廃ガス管を使ったイス、などがすでに世に出回り始めていますので、散乱ごみを供給源とする再生素材・材料が現れる日もそう遠くないことかも知れません。

 しかし、ごみを拾って、リサイクルしたり、再使用に回すのは、どちらかと言うと、出口の議論です。出口を何とかする一方で、やはり入口から、ごみの発生を含めた環境への負荷を抑えようとするのが、グリーン購入の考え方の原点です。出口と入口の両輪から解決策を進めていけば、きっと「ごみ」になる部分の総量を減らしていけるものと考えます。

 マナー向上をよびかけるのであれば、よく言われる「3つのR」そして「1つのL」に沿って、発生源を抑える(環境負荷を減らす)ことも欠かせないと思われます。つまり、

①そもそも買う必要があるのかどうかを考える、そしてどうせ買うなら、ごみの出ないものや軽量かつコンパクトなものを買う(Reduce=減らす)

②どうせ買うなら、再生素材を多く含むもの、次にまた再生できる素材でできたものを買う(Recycle=再利用(使用前のリサイクル))

③一度買ったものは、修理・修繕等を通して長く使う(Long-life)

④使い終わった後に、他者が再使用できないか、別の用途に使えないかを考える(Reuse=再使用)

⑤いよいよ捨てる時には、徹底的にリサイクルできる状態にする、又は適切な処分をする(業者選定を含む)(Recycle=再利用(使用後のリサイクル))...

 これは、一般消費者のみならず、企業や自治体など職場でも励行すべき行為と考えますが、いわゆるグリーンコンシューマリズムと関連するもの、つまり日常生活や居所を中心として考えることですから、散乱ごみとは直結しない面もあります。そこで考えられるのが、次のような観点です。

2.上位の散乱ごみの中で自然分解素材で作れるものは、その比率を高める

 ごみが散乱するのは、その場で飲食したり、喫煙したり、という付加的な(緊急を要さない)行為をする人が多いことが原因でしょう。特に、海岸や河川敷、森林、山道、自然公園など、自然とふれあうのを主目的に出かける場合、娯楽や飲食は必ずしも要らないはずが、自然はおつまみ、そんな感覚でそこにやって来る人が多いことに由来するように思います。自然を心から楽しめないから、そうした行為に及んでしまうとすれば、これは大量消費・大量廃棄がもたらしたゆがみそのものです。これをヒトの性癖としてあきらめるのは悲観に過ぎるので、ある程度の発生はやむを得ないと考え、ごみをごみ化させない工夫、つまりそのものを自然に溶け込ませてしまう工夫があってもいいと思うのです。

 もちろん、分解するから捨ててもいい、などということになってしまっては、これまでのマナー向上にかけた苦労が水の泡になってしまうので、公然にすべきものではありません。が、何年も放置されたままで、生態系毀損や環境汚染になるよりはましでしょう。まずはメーカー側の努力を促し、それを評価することから、だと思います。

 分解する途中で、鳥や魚が飲み込んで、害が及ぶようでは無意味なので、飲み込んでも害にならない成分や素材を使うことが求められるでしょう。タバコの吸い殻(特にフィルター部分)、スーパーやコンビニの袋、弁当の容器、食品トレーはそうした材質への代替が可能でしょうし、梱包用の発泡スチロールはトウモロコシカスなどで作った緩衝材に、缶やビンの飲料は紙製(分解性のいいもの)容器に、などなどが考えられます。すでに進行中のものもありますが、これらの代替や物質の量そのものの削減を強力に推し進めるために、優先的にこうした商品・製品を選んでゆくことが求められるでしょう(もちろん、購入する場合は、あくまで必要に迫られ、かつ適正に処分することが大前提ですが)。ごみを散乱させてしまう人たちが買うものを先回りして代替素材に替えていくことで、負荷を予め減らしていくことは十分に可能です。

 通常の処理ルートに乗る廃棄物全体からすれば、散乱ごみはわずかな量かも知れません。しかし、ごみの発生そのものを抑える上では、上述の点について常に考え続けたいものです。出口に加え、入口についても並行して取り組んでいきたいものだと思います。

※本稿は、日本環境行動ネットワーク(JEAN)クリーンアップ全国事務局の「JEAN通信」80号(2月17日発行)に掲載される予定です。

 常々疑問に思っているのだが、人の動きや流れはどうして集中するのだろう。集中というか、連鎖といった方がいいかも知れない。何となく疑問に感じ始め、よく観察するようになって、いよいよその意を強くした次第である。

 まず、電車の乗り方。予め、目的駅の階段の位置を覚えていて、そこから降りるのが都合がいいとわかっている場合であれば、決まった戸口から乗るのは、理に適っている。しかし、どう考えてもどの戸口から降りても良さそうな場合、例えば山手線内で混み合う線区(渋谷→新宿など)では、よほど待合せの改札やお気に入りの階段でもない限り、渋谷駅でどの位置から乗っても、新宿駅で降りる位置について大して構う必要はなかろう。しかし、ある車両に乗り込んで、周りを見渡すと、奇妙なことに特定の戸口だけ混み合っていることがある。「空いている戸口からご乗車ください」なんてアナウンスがあっても、どこ吹く風である。もちろん、階段付近の戸口だと駆け込み乗車で一時的にそこだけ混み合うことはあるが、そんな駆け込みと無縁な場所で混んでいるのを見かけるものだから、首を傾げてしまうのである。横着な人が多いのか、混雑に無頓着な人が多いのか定かでないが、どうせ乗るなら少しでも広々と過ごせた方がいいのに、といつも思う。(筆者はちょっとでもそうした集中傾向が出ると、空いているところにさっさと移動してしまうようにしているが。)

 ある飲食店の前で、メニューを見ながら立っている。するといつしか人垣ができ、その後から来た人たちがどっと先に入ってしまうことがある。不承不承、後塵を拝しながら店に入ると、その後何分もの間、客が入って来ないことがある。これはいったい何なのか? 店の人にとっては、急にいそがしくなったり、ヒマになったりで大変だろうにと思う。この前、田町の図書館の下にある食堂に入ろうと思って、一人静々と店に入ったら、知らず後をついてきていた若いサラリーマンに先を越されてしまった。11時を回ったばかりで、まず客が集中する筈がないのに、である。呆気にとられながら、日替わり定食を食す筆者だったが、とうとう食べ終わってもなお次の客は来なかった。何であの1分にも満たない間に二人、客が続くことになったのか? 最近では、人垣ができたらとにかく先に入れて、しばらく経って時間差を付けてから入るようにしているので、不快な思いをせずに済んでいるが、未だ謎である。

 こうした例は他にも、公衆電話、公衆トイレ、銀行のATM(出張所タイプ)、コンビニでの買い物、エレベーターなどなど、閑散としている時間帯にも拘わらず、連鎖的に人が集中する場面によく遭遇するのだ。逆を言うと、微妙に時間差を作れば、単独で余裕を以って使える、ということである。おそらく、通常は単独で使える場合が当たり前なので、ちょっとでも偶発的に他人の動きとシンクロしてしまうと、やけに気になる、ということなのかも知れない。それにしても、そのちょっとが多い気がするのである。

 滅多に車に乗らないので、本来どうあるべきかがよくわからないのだが、高速道路を走っていると、必ずダンゴ状態になっていることに気づく。つまり、ダンゴの車の群れがひとしきり去ると、空隙が生じ、しばらく走っていると又、次のダンゴがやってくる、という現象である。筆者は群れて走るのが大嫌いなので、そのダンゴの間を走るようにしているのだが、これもなぜ、人(というか車)の流れ・動きが集中するのか、疑問に思わせる一例である。高速道路では固まって走るのが常識なのか、それとも空隙を安穏と走る(セーフティドライブ?)のがいいのか、どっちだろう? ダンゴになるのをあえて好む人が多いということであれば、電車の乗り方にしろ、飲食店の入り方にしろ、合点がいくのだが、人間の習性って、そういうものなのだろうか? 飲食店を例にとれば、確かに一人で先陣を切って入るのは、勇気が要ることもある。そんな時、固まって入れば、何の不安も躊躇もないのはもっともな話。でもそれじゃあまりに工夫がないというか、自発性・自主性がないように思えてならない。

 人はあまりこんなこと考えず、単に群れている(タイミングが重なるのを良しとする)だけだと思うのだが、少し工夫して集中を回避すれば、待ち時間やイライラやいろいろなロスが減るんだ、ということも心したいものである。

keihin-tohoku1988.jpg 京浜東北線が田端から田町の間を快速運転し出した当初、通過駅になってしまった御徒町ではアメ横商店街挙げて、「快速運転反対!」とかを唱えていたのを思い出す。大宮~川口や横浜~大船からの遠来の客にとっては、快速運転によって時間的距離が縮まる訳で、上野や秋葉原で山手線に乗り換える手間を差し引いても、そのメリットは大きいと考えていた筆者は、こうした地元商店街の反発を短絡的かつ顧客軽視な発想と受け止めていた。逆手にとって、「大宮~川口、横浜~大船の皆様、ようこそ!」くらいの度量を見せた方が良かっただろう。御徒町を通過することで果たして客足は減ったのだろうか? むしろ快速運転のおかげで相変わらずの賑わいを見せているのではないか、と思うのである。

 御徒町の例は、今まで各駅停車だったものが快速列車になる、というあまり見当たらないケースで、確かに地元にしてみればあまり愉快でない話である。逆によくあるのはこれまで各駅停車のみだった駅に優等列車(快速や急行等)が停まるようになる話。これは地元挙げて歓迎ムード一色になり、停車初日などには自治体首長や地元有力者がそろって祝賀式典を開いてしまう、という程の盛り上がりを見せるので、否応なく記憶してしまう。筆者の覚えているところで書き出すとざっと以下の通りである。

【JR横浜線】

・快速運転当初の停車駅:東神奈川、新横浜、鴨居、中山、町田、橋本

・現在:東神奈川、新横浜、鴨居、中山、長津田、町田、相模原、橋本

 2駅増えたが、逆を言うとなぜ快速を停めなかったのかが不思議なくらいである。未だ菊名に停まらないのは、乗客の流出を防ぐための競争原理が働いているからだが、不便なことこの上ないのは、沿線の方々が最もよく実感されていることだろう。(新幹線利用客も然り)

【JR京葉線】

 幕張メッセがオープンして間もなく、何らかの大型イベントを見に行った筆者は、京葉線の快速が海浜幕張に停まらないことを知り、えらく驚いたのを覚えている。この日はさすがにイベントに繰り出す乗客が多かったため、快速を臨時に停めていたが、快速列車が標準停車になったのは、その後、間もなくのことだった。

 休日と平日でかなり変則的だが、平日の快速停車駅は、東京、八丁堀、新木場、舞浜、新浦安、海浜幕張、検見川浜、稲毛海岸、蘇我となっている。

【小田急線】

 江ノ島線の変化が激しい。東急田園都市線が延伸されていたのを機にしばらくして、中央林間に急行が停まるようになった後、大和には特急が、そして今秋、横浜市営地下鉄が入って来るタイミングで湘南台に急行が停まるようになる。かつての急行は相模大野、南林間、大和、長後、藤沢だったので、急行列車たる貫禄があったが、こう増えてくると意義が薄れてきそうだ。一度停車したものを停まらなくするのは、横綱を降格できない、市に昇格したら、どんなに人口が減っても町に戻すことはないのと同じで、既得権みたいなものだから、扱いが難しいのだろう。(地元が反発するのは想像に難くない。)

 しかしながら、小田急にはこんな例もある。筆者が昔、経堂に住んでいた頃、準急列車は全て経堂に停まっていた。ところが、代々木上原が新しくなり、千代田線が直通準急で乗り入れて来るようになってからは、直通準急は経堂を通過。ついでに朝夕ラッシュ時の準急も停まらなくなってしまった。幼心に結構ショックだったのを覚えている。この時、同じ憂き目に遭ったのが代々木八幡で、千代田線が代々木公園止まりだった時分は、準急が停まっていたが、千代田線の直通乗り入れが始まった途端、ただの各駅停車のみの駅に「降格」してしまった。かつては代々木上原の方がずっと地味な駅(高架ではなく、地上駅)だったのに、今では格の違いを見せ付けている感がある。(ちなみに、新百合ヶ丘ができる前の急行停車駅は、新宿、下北沢、成城学園前、登戸、向ヶ丘遊園、新原町田(現・町田)、相模大野...だった。向ヶ丘遊園から新原町田の間を猛スピードで走っていた当時の「急行」が懐かしい。)

【東武東上線】

 新しい駅ができると、優等列車をどう停めるかが焦点になってくる。筆者、小学校低学年時代は川越に住んでいたので、東上線にはよく乗ったものだが、その当時の急行列車は、池袋、成増、朝霞台、志木、川越...だったが、営団地下鉄有楽町線が乗り入れてからは、和光市に停まるようになり、新しくふじみ野ができると、そこにも停車するようになった。新駅という点では、柳瀬川、みずほ台、若葉の3つもそうだが、ふじみ野には停めながら、その近くの柳瀬川、みずほ台には停まらないのは、ふじみ野が東武の宅地開発の目玉だからに他ならない。同じ新駅でも明暗を分ける一例と言える。(もっとも地元の人たちにとっては、新しい駅ができるだけでもセンセーショナルなのだと思うが、どうせなら優等列車も、というのが人間の欲求本分なんだろう。)

 ちなみに、東武伊勢崎線の板倉東洋大前も新駅だが、これまで東武動物公園~新大平下の間を30分間ノンストップで走っていた快速列車を停める一つの布石、かつ一大ステーションにいきなりなってしまった。

 新駅ができる時、そして線路を延ばして新たに相互乗り入れを始める時など、どこにどう優等列車を停めるのか、というのは筆者にとってちょっとした関心事である。沿線住民・沿線自治体の思いと鉄道会社との思惑がどう折り合ったのか、そして、そこに停めるに至った決定的な理由は何だったのかを実際に現地を訪ねることで検証するのは楽しい。都営地下鉄が新宿線の急行運転を始めたのに次いで、浅草線では空港間快速特急(成田←→羽田)の運転を始めた時、その停め方に「なるほど」と感心させられたものだった。お次は、営団南北線と都営三田線が目黒から東急線に乗り入れを始めた暁か。急行停車駅がどうなるのか、これも気になるところである。(多分、目黒、武蔵小山、大岡山、田園調布...になるものと思われるが。)

 未だになぜここに停車して、ここに停まらないのか、と考えさせる駅は幾多もある。地元挙げて、優等列車停車に向けて運動を繰り広げているところも多い。ともかく利益誘導や地元本位な安易な停車設定は考えず、路線全体、交通体系全体(乗り換えや混雑緩和)での最適なパターンをじっくり考慮してもらいたいものである。当然、そうした観点からは既得権益にこだわらない「降格」も検討する必要が大いにあると思っている。

 筆者の一計では、JR常磐線快速の新松戸停車、JR東北本線普通列車の川口停車、東武東上線準急のときわ台停車、横須賀線の鶴見駅設置、などは実現してもよいと昔から思っているのだが、いかがなものだろう?

 隣市である川口市へ入ると、都内とは俄然、道路事情が異なってくる。北本通り(きたほんどおり)を営団地下鉄南北線に沿って走り、赤羽岩淵の交差点で道なりに右折すると、新荒川大橋に出る。ここまでの都内の道路は、車道の分離帯、歩行者用道路、自転車用のラインともに整っており、人のクルマも自転車も安心して走れる。ところが、新荒川大橋を渡りきり、対岸の埼玉県(川口市)に出ると、クルマで走る場合はともかく、人と自転車にとっては受難続きになるのである。この国道122号・岩槻街道、(北に向って)左側の車線脇には、かろうじて自転車が1台通れる幅の歩道があるだけ。しかも傾斜があるので、人が上り、自転車が下りですれ違う場合など危なっかしいことこの上ない。(北に向って)右側はと言うと、あきれたことに歩道がない。要するに川口から都内に向う場合、橋への傾斜がつくところで、車道だけになってしまい、歩道は泣き別れになってしまうのである。自転車で川口から赤羽に戻る際、こっち側の歩道を走っていて、途中、走りようがなくなってしまい、信号交差点の五差路まで戻って、反対側の狭い歩道をぎくしゃく走って帰ったことがある。これはまず新荒川大橋の袂からNTT川口のある五差路(本町ロータリー→地図までの話。200~300mなので、我慢できないではないが、とにかくひと苦労させられる。続いてこの五差路だが、左側を自転車で走ってきた場合、なんと直進ができない。横断歩道がないのである。川口駅に向う場合は、ここで素直に左折すればいいので影響ないが、赤羽から鳩ヶ谷方面をめざす時は、ここでいったん右側に渡り、直進し、再び左側に渡る、つまりコの字に進まないといけない。左側には、住宅公園やダイエー系ディスカウント店などがあり、一頃は結構足を運んでいたので、これが苦痛で仕方なかった。

 さて、さらに悪いことにこの岩槻街道、現在、南北線の北進部分、つまり埼玉高速鉄道の工事中とあって、道路路盤が鉄板敷きになっていたり、舗装がきちんとなっていないものだから、車道・歩道の区別が一層つきにくくなっている。ダイエーがある左側でなく、鳩ヶ谷方面に用がある際、右側を直進していて、これに出くわし、実に驚かされた。おまけに凹凸も結構多いので、歩行者・自転車ともに泣かされる。新荒川大橋から川口元郷・末広の境界あたりまでの約1km。都内と異なる道路事情の一端を知ることができるという訳である。

 久々にクルマを動かす機会ができたので、鳩ヶ谷方面にある、とあるホームセンターに買い出しに行くことにした。自転車でこのホームセンターに行ったところで、それなりに物は買えても、こういった道路事情だから、下手にいろいろ買い込むと不安定になり、事故のもとなので、クルマに頼らざるを得ないのである。クルマ優先で道路が成り立っているので、さすがにクルマだと楽である。自転車で30分近くかかって、迷いながらたどり着いたのが嘘のように、クルマ来店者向きの看板案内に従い、難なく着くことができた。ベランダ据え置き用の大型ボックスや突っ張り棒などを買い揃え、家路に着く。しかし、思わぬ落とし穴と言おうか、幹線道路はクルマ向きであったのに、ちょっと間違えて生活道路に迷い込むと、もうそこは人も自転車もクルマもない、線引きがない無法地帯となってしまう。大げさかも知れないが、どの立場の安全も保障され得ないのである。暗かったせいもあるが、細い道はそんな状態だし、ある程度幅のある道路でも中央線がわからない上、車線に書かれるべき、ダイヤモンド「◇」や「30」「40」などの規制速度表示も少ないから、車幅が読めず、対向車が飛び出してきた時には、肝を冷やした。道路標識もあいまいなので、果たして進入禁止なのか、一方通行なのかもわからない道路が多く、おそるおそる入ってみてから、双方向通行の道路であることがわかるという始末。あとで地図で見てみたら、川口朝日・青木の界隈をうろうろしていたことがわかった。いやはや。

 末広の交差点まで出て、再びクルマ天下に戻ったが、またまた驚いたことに、先述した南北線の北進部分(埼玉高速鉄道)の工事箇所では、車線が仮に引かれているだけで、中央線や分離帯もないのに気がついた。このあたりは自転車や歩行者だけでなく、クルマも命懸けである。この日は、春に向けての大嵐に見舞われていたこともあったので、何か物が飛んできやしないかという心配も重なり、また格別だったのは言うまでもない。

 消費税導入が方向付けられたのが、今から10年前の1988年11月10日。自民党が単独強行採決した日である。怒号の中、翌月12月24日に法案が成立し、1989年4月1日には各地の商店街などが導入反対の横断幕を掲げる中、消費税がスタートした。まだ記憶に新しいところである。当時学生だった筆者は、大学で消費税について少しばかり学習する傍ら、生活防衛の意味も込めて、出納帳を付けるようにしていた。全体の支出の中で消費税がどれだけ占めるものかチェックしていたのを思い出す。店によって、計算の仕方が違うことも会得した。30円の小さなスナック菓子を買うと、30円×0.03=90銭分の消費税が上乗せされることになるが、これを切り捨てるか、切り上げるかが店によって違うのである。30円で買える場合と31円かかる場合と。切り上げは便乗値上げのようなものであり、客を愚弄した行為だと思ったものだ。小さな買い物をして、店を比較してみる。切り捨てで課税する良心的な店を選ぶようにし、倹約に励んだものである。

 1年も経つと消費税が当たり前のようになっていて、抵抗感も薄れていったが、例えば90円単価のものを1つ買えば、92円で済むが、2つまとめて買うと185円になってしまうことには、ずっと腑に落ちないものを感じていた。どの店でも単価に対して課税し、あとで合計すればいいものを、そう常々思ったものだ。1円を笑うことなかれ。店によっては、まとめて買うよりは、個別に買った方が安く買えることが実際にあったのである。(この倹約精神は今でも続いているが、時として思わぬところで要らぬ出費をしてしまうことも変わっていない。)

 という訳で、1円を軽んずる仕組み上の欠陥もさることながら、税率を上げることで、消費を冷え込ませる効果も確認?!された消費税。消費刺激につながる具体的な国策が打ち出せないでいる状況に発憤した流通・スーパー業界の一部が11月11日頃から「消費税還元」を銘打ったセールを始めた。タイトルがめぼしかったのが良かったのか、ただでさえ利益(利益率も)が一番いいI堂は、かなり客足を伸ばしているようだ。筆者の勤務先である武蔵小杉と筆者地元の赤羽にI堂はあるが、どちらも賑わっていた。ふだんの同じ時間帯での混み具合がわからないので、一様には言えないが、レジに並ぶ列の長さを考えれば、好調と言っていいと思う。武蔵小杉店は専門店も抱えているので、専門店も同時に5%還元をしないと効き目が鈍るような気もするが、そこは個別の事情で致し方ないのだろう。換金性の高い金券やチケットの類の他、介護用品なども対象外になっていたが、それ以外の店内全品どれをとっても、還元の成果が現金ですぐに返ってくるところがツボを得ている。貼り出されていたレシートの拡大見本を見ると、合計額10,700円に対し、いったん5%を引いて、そこへ5%課税することになっている。単純に課税しなければ、5%浮くことになるが、いったん引いて母数を小さくしてから、1.05をかけることで、実質的な値引きになっているところがポイントである。10,700×0.95=10,165円、10,165×1.05=10,673円。という訳で27円おトクになっている。さすがは利益率トップというだけのことはあると感服した。(ちなみにI堂系列のコンビニは「不況突破企画」と打って出た。客を鼓舞するのにこれほど明確なメッセージがあるだろうか。)

 一方、売上トップのDはどうかと言えば、レシート合計で10,000円超に対し、500円のお買い物券進呈という設定で、何とももどかしい還元である。実際に消費税還元という打ち方はしておらず、単なる「生活応援」なので、還元の意図はないのかも知れないが、お客にとってはあまりメリットがない話だと思う。(10,000円に満たない買い物では5%分を享受できないのである。) それにわざわざ買い物券という紙片を用意しなければならない訳だから、紙資源を使う上、コストがそれだけ余計にかかってしまう。D社長は、日頃から値下げするのが消費者サービスと高言していた。だが、それは商売道の基本に沿った考えであって、この時世においては、セールの目的を客にわかるように明示し、活気を起こさせる方が、全体としては得るものが大きいのではないだろうか。武蔵小杉には、I堂の他に、Dグループの○エツが店を構えている。店舗の大きさのせいもあるだろうが、○エツの方はI堂に見たような賑わいはなかった。店員も心なしか元気がないように見受けた。I堂より5日間長く、11月20日までお買い物券プレゼントを続けることになっているが、どれだけの効果が出るものか疑問に思う。本当に消費者が求めているサービスをタイムリーに提供しない限り、Dグループの利益及び利益率の向上は望めないのではないか。そう感じさせる展開だった。(話はちと逸れるが、今の時期、商品を半額にして、とにかく客足を増やし、結果的に何倍もの売上に結びつけるという事例をよく見聞きする。常にディスカウントする場合は薄利多売と言えるが、一時的に思い切った値下げをすることで、消費を刺激する策は歓迎できる。客側・店側にとってメリットがあるのは言うまでもない。)

 赤羽にはI堂の他、Dもあれば、S友、N屋もある。それぞれどんな展開になっているか、最終日までにのぞいてみようと思っている。ただ心配なのは、日頃の奉仕価格を取り下げて、還元分を吸収すべく一部の商品で値上げでもしやしないか、という点である。安いからといって、何でもかんでも手を出すのは慎みたいものだ。

 東急ハンズ都心型1号店としての渋谷店が開店して、9月でちょうど20年になるという。都内では、渋谷の他、池袋、新宿、二子玉川園、町田にあるが、筆者の身の回りにあるちょっとしたお役立ちグッズは、だいたいそれらのどこかの店で仕入れたものが多い。東京に戻ってきて10年余りが経ったが、その間それだけお世話になっている訳である。一利用者のこうした状況からして、一般的にはこの20年という歳月の間に東急ハンズが得てきた存在価値や果たしてきた役割は決して小さくないと思う。

 多少小遣いの額がアップした高校時代、大阪で暮らしていた筆者は、とある日、朝刊に入っていた「東急ハンズ江坂店」の四つ折りの特大広告を見て、すっかり魅せられてしまったのを思い出す。家族のリクエストを無理やり聞き出し、口実を作って、ためていた小遣い1万円ほど持ち出して、東急ハンズに乗り込んでいった。13年ほど前の話である。これまでお店の人が使うような専門の道具の数々が自分の手に取れる上、それが買えてしまうのだから、えらく胸躍ったものだ。(蛇足ながら、その時買った品で傑作だったのは、20面体サイコロだろう。自作の長篇双六ゲームでずいぶん重宝したものだ。) さらに、「自分の手を使って、あらゆる素材を操る、そんな「手の復権」を全ての人に開放する」、要するにコンセプトを提示するのが商売、という店があるのを知った時は、買い物の満足感に加えて、精神的にも充実でき、ハンズ初体験日は実にいい一日だった。

 さて、東京に戻ってから初のハンズ体験は町田店だったが、毎年8月の末頃、全店挙げて開催される「ハンズメッセ」に出くわしたのも町田店が最初だった。町田店はハンズの中では大きい方なので、扱う品数も多い。一般商店ではなかなか手にできない物がセール価格で並んでしまうのだからこれは二重の喜びである。(何を隠そう、先述した筆者身の回りのハンズ購入品の多くは、このメッセで手に入れたものが大多数である!) 加えて、レシート合計3,000円で1回、ハンズオリジナルグッズのクジが引けてしまうというおまけまで付いているのだから、冥利につきる。忘れもしないこの時のハンズメッセでは、自分で買った分では3,000円に満たなかったものの、検印のない高額レシートを恵んでもらって、3回抽選させてもらい、C賞(時計)・D賞(ミニドライバーセット)・参加賞のそろい踏みという幸運をつかんだ。(ビギナーズラックの典型か、この後は何度抽選に臨んでも参加賞ばかり...) という訳で、ハンズの、とりわけハンズメッセのとりこになって10余年。今年も8月25日から30日までの期間中、池袋、新宿、渋谷の3店舗をハシゴすることになってしまった。筆者が年をとったせいか、さすがに江坂店で最初に感じた、商品一つ一つが放つ強烈な個性や主張は近年感じられなくなってきたが、しっかりしたコンセプトのもとに集められる限り、その品々は普遍性を以って、いいモノであり続ける訳だし、ましてそれが「特別提供品」や「処分品」だったりすると、目が煌々と輝いてしまうのは相変わらずである。

 3店舗に限った話になるが、今年の特徴として感じたのは、フロアに占めるメッセコーナー(要するに「特別提供品」と「処分品」)が平年より広く確保してあったこと。そして至って少数だが、昨年もメッセ品として出ていたものが再登場していたこと。の2つである。不景気な時世にあっては、東急ハンズとしても商品のやりくりが難しくなっているのでは、とふと思ってしまった。処分品にあっては在庫一掃の意味もある訳だから、これが増えるようだと、商品の回転が思わしくない、と悟られてしまう訳である。ともあれ、利用者としてはそんな心配も、果ては自分の財布の心配も忘れて、すっかりバーゲン状態である。(と言っても、買い物袋を持参するのと、包装を断るのは忘れませんよ。)

 今回仕入れた物のうち、自分で主に使うのは、大容量のクリアファイル、靴磨きクリーム缶の詰合せ、それと小型のシュレッダの3品。買った後で考えると、別にハンズでなければ手に入らない、といった物でもないことがわかる。それだけいろんな物がいろんなルートで入手できるようになったということなのか、はたまたハンズそのものが没個性化してきているのか、いややはり自分自身の感性が鈍って来ているせいか、などと案じてしまうのだが、まぁ市価よりは確実に安い、ディスカウント店よりもちょっと安い、今はそうした基準でメッセを活用するようになった、というのが正直なところである。さて、メッセならではの抽選の方だが、言わずもがな、参加賞のオリジナルポストイットのみ。結果はどうあれ、この楽しみがおまけで付いている以上は、メッセは健在だろうと思う。(それにしても、かつてE賞まであったのが、近年はA~C賞まで。それもA~Cまでの対価も肩並びな印象で、ここにも景気の翳を感じてしまうのだった。)

 10年前に買い求めた「東急ハンズの本」(1986/05)を繰ってみると、「ハンズのキーワード集」なるページがあった。目に付いたものを挙げると、「ハンズ的なところに初めて何かがある」「店がつくる店でなく、お客様がつくる店」「精神は素人で、商売はプロで」「ハンズは情報で人に教えない」「永遠の新規事業」「割り算で割り切れるようなスッキリした答えは見つけない」「モノを通しての自分の生きがい」「マイナーの価値観を大切に」「素材と道具という切り口」「効率の顔でなく、つくり手の顔」「商品を見つけに来るのではなく、自分を見つけに来る」「HANDS-the first tools of Creation」...東急ハンズの店員はどこかしら町工場の職人然とした実直さと温かさがある。こうした精神則が息づいている故と改めて思う。これからも応援したいし、お世話になりたい、今はそんな気持ちである。(東急ハンズを推すのであれば、消費生活アドバイザーとしてもっときちんと批評すべきなのだろうけど、それは別の機会に委ねることにしよう。)

980430.jpg 自家用車は持たないことにしているので、自動車が入り用の際は、実家から借用してくる。南伊豆の下田に会社の保養所があるのだが、抽選に当たったので、約1年ぶりに車を動かし出かけてきた。(帰宅したのが5/2夜だったので本稿の発行が遅れました。) 自動車を自分で運転するのは、最近の「ストップ!地球温暖化」にまつわる活動や関わりからも、そして大通り公園とこどもの国で実施したアースデイ・フェスティバルで出展していただいた「クルマ社会を問い直す会」プロデュースによる「道はだれのもの?」の写真とメッセージに共感した手前からも不本意ではある。それなら鉄道・バスを使ったらどうだ、と指をさされそうだが、今回の旅行では自分なりに「エコドライブ」を考えながら、実践してみようという思いもあって、あえて車を使うことにした。(加えて下田への道すがら、三島市に隣接する清水町の境界近くにある柿田川の湧水池(写真)を見に行きたかったという隠れテーマもあったが)

 まず、アイドリングストップ。黄信号から赤信号に変わる段階で停止した場合(つまり信号待ちに時間がかかると読んだ場合)、はじめのうち何度かエンジンを止めてはいたが、やはりエンジン再始動時に燃料を食うようで、E←→Fの針がEに傾くのが早まるのに気づいた。という訳で残念ながら信号待ち時のアイドリングストップはあきらめた。帰宅手前の赤羽界隈で国際興業バスの後ろで信号待ちしていたところ、このバスが「アイドリングストップ」宣言バスで、青信号に変わったとたん、エンジンのスタート音が鳴ったのにはインパクトを受けた。青信号と同時に一斉にエンジン音が響く、そんな絵図は決して悪くないと思う。

 荷物は抑えて、スピードも適正に。これもエコドライブの一箇条である。スピードはもともと出さない質なので、問題なく実践できるのだが、周りのクルマとの調整や駆け引きが伴う分、なかなか難しいところではある。東名高速を裾野で下りて、三島市内~清水町~伊豆箱根鉄道沿い~修善寺~湯ヶ島~浄蓮の滝~天城トンネル~河津~白浜~下田、というルートで南下したが、天城越えのあたりは高度がある分、結構なカーブそして上り下りである。緑深い風景を堪能しながら、規制速度通り、なんて言っていられないのが現実で、こっちが法定速度ペースで走っていると、すぐ後ろからクルマが接近してくる。崖下の道幅が広くなっている部分を見つけて止まっては後続のクルマをやり過ごしていく、これの繰り返しである。急カーブやつづれ折りもあるのに、何ゆえにあんなスピードで走っていけるのか、さらに言えば、走って行った先に何があるのか、目的地に着くまでの過程には何もないのか、こうした疑問を常に感じさせる山道走行である。しかしこれはもうエコドライブ以前の問題で、運転マナーや交通法規遵守度を問わざるを得ないクルマが多いということである。環境への負荷軽減と自身や周囲の安全尊重は両立すべきものと心得たい。もちろん山道に限らず、平坦な道路、一般道・自動車専用道を問わず、これは問いかけたいことである。

 車を動かしておきながら大それたことは言えないが、安全を省みない、つまり自己過信によるスピード運転は、クルマ社会の弊害の最たるものの一つ。道路政策や産業政策が助長している部分もあるが、何より個人のスピード信奉に問題があるように感じる。「クルマ社会を問い直す会」の資料によれば、毎年70000人を超えるこどもたちがケガをし、500に上る幼い命がクルマにより奪われている、とある。道路はクルマのためばかりにあらず、もともとは人が通るためのものだったはず。クルマは常に謙虚でありたいと願う。

 よくよく考えると自動車教習所に通い出したのは、今からちょうど10年前。当時はエコドライブという言葉は耳にしなかったが、適正速度&空気圧の話や、運転する前の整備・点検、ガソリンの経済的使用(急加速・急発進は×)など、エコドライブに通じる講習があったことを思い出す。初心に帰って、環境面、経済面そして安全面の両立を考えながら運転したいものだと思った。

 第12話では悠長にも「寒中クリーンアップ」なんて言っていたが、灯台もと暗しとはまさにこのこと。ふだんのクリーンアップエリアから、京浜東北線・宇都宮高崎線をはさんだ反対側で、何ともショッキングな事態が起こっていた。昨秋の荒川下流全域の一斉クリーンアップを実施した際、オプションで植物観察会を行った場所、そこは一面の草っ原で、「オオケタデ」「オオイヌタデ」「ヤナギタデ」「チカラシバ」「ヤブマメ」はもとより、何と「コスモス」も咲く、近辺では珍しいほどの植物の自生地、宝庫だったところである。年度末とは言え、何とも性急なことに、ブルドーザの轍も生々しく造成が進んでいたんだから驚くしかない。もともと交通公園だったところが、放置され、人手がかからなかったことで植物が自然に繁茂したのは、当地に暮らすようになってからずっと見届けてきたからよくわかる。その「草原」が見る影もないのである。ここを通りがかったのは何とも皮肉なもので、赤羽岩淵の水門界隈にこの程、開館なった「荒川知水資料館」の一般公開に向う途中のこと。知水資料館の一帯は「岩淵みんなの散歩道」とのふれこみで、親水公園を意識した整備が進み、既にその片鱗を見せているが、その延長というか一環というか、先の京浜東北線・宇都宮高崎線鉄橋あたりから、岩淵にかけての荒川河川敷ではそんなこんなの工事が盛りを迎えていた。

 落胆を胸に歩を進め、新荒川大橋の下をくぐり、ともかく知水資料館をめざす。話が前後するが、ここ「岩淵みんなの散歩道」は、その名にしては残念なことに、実に一般的なアスファルト舗装でできている。コールタールの色艶・匂いが存分に残る不自然な歩道を歩いていると、河川行政について意見したいという気持ちはどうにも禁じ得なくなってくる。アスファルトは水をはじく、ということは河川が増水した時、この道はどうなるのか。透水性舗装、それにタイヤの廃材を配合したものにできれば、歩きやすいし、水も河川敷の土に還れるはず。部分的には緑色に塗装してあり、親しみ感を持たせた道路舗装になっているが、根本の発想が何とも貧弱に思える。

980329.jpg 知水資料館は開館初日から大入りのにぎわいである。赤水門・青水門一帯で「荒川土手 さくら祭り」なるイベントを併催したせいもあるだろうが、これは流域住民の川への興味・関心がやはり高い故であろうか。写真を添えた手書きメッセージで荒川の今を伝える「ニュースマップ」、川に棲む生物の観察や紙すきの実演ができるワークショップ向きの「荒川テーブル」などは、なかなか好感が持てた。ここに来るまでの憤懣が中和しかけた時、「あらかわご意見板」なるおあつらえむきの展示に遇した。建設省・東京都・北区の荒川の整備計画や取り組みが一望できる。しかも開示資料付き。早速、草原を根こそぎにした計画を調べてみる。堤防スタンドと高水敷(?)...となっている。どうやら運動場と観戦用のスタンドになるようだ。スタンドは段丘を利用して板状のベンチシートが既に埋め込んであったのを見た後だったので、計画の察しがつく。川岸部分は親水を謳い、お花畑も設けるとある。しかし、植物の自生を促すような場所はなさそうだ。結局、草原の跡地は全て人手がかかることになる。昨秋でコスモスが見納めになってしまうのだとすると、こんなに非情なことはない。意見コーナーなので、然るべき用紙と回収箱が据え付けてあった。これを逃す手はないと思い、想いの丈を書き綴る。と、いつしか荒川クリーンエイドの関係諸氏が声をかけつつやってきて、「いや実はこれこれで」「ふむふむ」などと始まったものだから、大変である。すっかり河川行政談議になってしまった。アスファルト舗装のこと、スーパー堤防のこと、護岸脇の不法投棄ゴミのこと、などなど。あらかわ学会の方や、当の建設省の広報担当とも話を交えたため、いささか激昂調子である。意見のある大人の話を聞きつけてか、通りすがりのこどもの一人が「子どもが遊べる場所がほしい」と言い残していったのが忘れられない。その子からその場でいろいろ話をしてもらえばよかったと、今思う。

 投函した意見には、後日回答書付きでご意見板に貼り出されることになっている。そのうちしかと見に行かないと。ともかく回答の如何に関わらず、次にクリーンアップをする時など、以後は近辺の整備事業には目を向けておく必要がありそうだ。

 出張扱いで、沖縄へ行く機会を得た。1/23、羽田を8:45に発ち、正午には空港から市の中心部へ向うバスに乗っていた。チェックインするとすぐ、那覇市西3丁目にある沖縄女性センターへと徒歩で向う。電子情報通信学会の一研究会での論文発表のためだ。午後の部の最初、今回の会では招待講演ということで、琉球大工学部の先生による「21世紀、沖縄の雇用中枢はマルチメディア産業か」と題する話を拝聴することができた。沖縄県の様々な実状を交えた産業論で、大変興味深いものだった。内容を小見出し風に書き出すと、ざっと以下の通りである。

1.県の実状

・沖縄県現在人口は130万人だが、2025年までに14%増見込み
・沖縄の国庫財政は約1兆円
・基地の他に資源がない県土
・第3次産業比率は80%と高率(全国平均は66%)
・1国2制度に対して中央官僚は冷ややか
・自由貿易地域構想は下降気味だが、県の自助努力不足とは言いきれない
・100の指標中 全国1位は23、ワースト1位は34

2.沖縄振興策と今後

・振興策向けの特別調整費は50億円
・脱基地経済をどうするか、沖縄にできるのは情報通信産業しかない
・政府の規制緩和が必要、返還前は規制が緩やかだった
・24時間稼働する国際都市構想と東アジアの国際ハブ化
・行革と沖縄政策協議会の矛盾、予算削減か拡大か
・琉球大学は新たに理学部を設置、マングローブや珊瑚礁を研究予定
・優遇税制(法人税35%控除、雇用者数最低50人)の推進が求められる
・マルチメディア産業の即雇用性に期待
・地理情報システムのモデル地区構想(沖縄、北谷、浦添、宜野湾)
・沖縄の基地問題は曇りのち雨か?
・普天間基地移転も凍結?

 学会での講演にしてはいい意味で異色な内容で、すっかり聞き入ってしまった。今回の研究会は、沖縄での情報産業の未来を語り合う目的もあったようで、結構なことだと思った。

 が、しかしこの講演は決して研究会を意識したものではなく、先生は日常考えておられることを口述したに過ぎなかった、とわかったのは次のような出来事ゆえである。つまり、沖縄県民の方々には、その県土・県史の特異性から、独特の郷土意識、連帯意識のようなものがあって、誰もが当たり前のように県のことを案じているのである。

980124.jpg 本州日本海側、中国・九州地方を雪で覆った寒気団、それと冬型崩れの長い前線の影響で、沖縄は変則的な気候に見舞われた。曇天なのだが、時折強い風と雨が襲う。そんな週末を定期観光バスで過ごすことにした。安里を出て、ルート58を北上、浦添~宜野湾~嘉手納~読谷~琉球村~恩納海岸~万座毛~許田~名護と走る。景観を楽しみながら、バスガイドの話を聞いている。すると、「いや待てよ、これはただの観光ではない」とハッとさせられるフレーズが出てくるのである。基地の間を走る訳だから、基地の説明は言うまでもないが、例えば普天間を通る時、ここは危険が高いこと、住民が騒音に絶えず悩まされていること、がまず紹介される。沖縄海岸国定公園を左に見ながら、右手山腹のゴルフ場の開発で赤土の流失が問題になっていることが語られる。名護市役所を見ながら、あの建物は冷暖房を最小限に抑え、自然の風をふんだんに取り入れる構造になっている、なんて話まで。さすがに読谷村が1993年の環境自治体会議の開催地だ、なんて話までは出なかったが、基地問題や環境問題に対する意識の高さを端々にうかがうことができた。

 名護から先は、海沿いに本部町に進み、かつて国際海洋博が開かれた国営公園まで。帰りは、海沿いではなく、八重岳の道を緋寒桜を拝みながらの乗車である。名護~許田までは往路と同じ。許田からは、沖縄自動車道を通って、沖縄市の北口まで進む。沖縄市がかつてコザと呼ばれていた話、そして日本に返還される前、コザでは白人・黒人の兵士間で縄張り争いがあった話などを聞く。何とも信じ難いエピソードである。

 ホテルに戻ってから、地元紙に目を通す。県民アンケートの結果が載っていた。「あなたは日本人か、それとも沖縄人か?」、対する回答、「沖縄人」...実に80%とある。他にも基地問題や環境問題に対する関心度の高さを示す数字と、そうした問題を自分のことのように語るコメントの数々。沖縄県の歴史や風土については、観光バスツアーの翌日、1/25に出かけた首里城公園内の展示室でじっくり見学したが、やはり本土とは趣を全く異にする。アジアの海洋貿易の拠点として栄えた時代、周辺国から様々な文化を受け華やいだ時代に思いを馳せながら、県民の方々の沖縄人としての誇りと風格の高さの理由を感じ入るのであった。

 さて、東京に暮らす人たちには、東京人という郷土意識、連帯意識は果たしてどの程度あるだろうか、とふと思う。

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